新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
(意訳)昔々、ある王様が世自在王仏の話を聞いて、深く感動し出家されて、
法蔵と名乗られ、世自在王仏の所で修行に明け暮れていた時
(書き下し)法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏のみもとにましまして
意訳をみて驚かれる方も多いのではないでしょうか。
この原文だけを見て、意訳が分かるということはありません。
実は(「法蔵菩薩因位時」から)阿弥陀様が悟りを開いていないときから、
(「必至滅度願成就」まで)悟りを開くまでの話が書かれてあります。
その悟りを開くまでの背景がありまして、「法蔵菩薩が因位の時」という訳だけでは
意味が通じないと思いまして、意訳には王様が出家し法蔵と名乗られ、
世自在王仏の所で修行していた時と付け加えました。
この物語は、大経(仏説無量寿経)に詳しく書かれてあるものを正信偈の冒頭に述べられています。
ですので、もっと詳しく知りたい方は、大経を読み調べていただくと良いかと思います。
阿弥陀様が悟りを開いていない時の話です。それを頭に入れたまま読み進めてください。
はるか昔、ある国の王様がおられました。王様というものは、権力・地位・財力すべてを備えた者です。
それは、私たちの求める欲望(権力・地位・財力など)をすべて満たす存在です。
なに不自由なく生活していた王様が、世自在王仏の話を聞いて感動し、出家なされました。
この時、王様は何不自由なく生活していたが、私たちは老・病・死などの苦しみからは逃げられないと気付きました。
この根本的な苦悩をどう解決するかを道を求めて出家されました。
私たちは、技術的な面では進化してきましたが、根本はなにも変わっていません。
私たちが求める欲望を如何に満たしていっても、それはどんな意味があるのだろうか。
その権力・地位・財力に捕らわれた人生を送っても、最後には老・病・死などの苦悩が待っているのなら、
権力・地位・財力というものは何の役にもたちません。社会で勝つということが、権力・地位・財力を得るということならば、
最後は死という敗北で終わる人生となってしまいます。
王様が出家され、法蔵と名乗られ、世自在王仏の所で、修行して阿弥陀仏となられたのでした。
(ここから難しくなります)
前回、「法蔵菩薩因位時」から「難中之難無過斯」は依経段と説明しました。
中でも、「必至滅度願成就」までが弥陀章(阿弥陀について述べている)、
「如来所以興出世」からは釈迦章(釈尊について述べている)であります。
この弥陀章の中で、「重誓名声聞十方」までが因位であり、「普放無量無辺光」からは、
果位について述べられています。因果という言葉があるように、原因と結果の話であります。
阿弥陀様が王様の時、出家して修行した原因によって、阿弥陀様という本願成就による結果があるということです。
昔々と訳しましたが、これは久遠無量刧の昔という表現が正しいと思います。
私たちには、思い測ることができないほどの昔です。
その昔に53の仏が世にお出でになり人々を救われた。その次に世に出られた仏を世自在王仏(54番目)がお出でになりました。
それだけ、私が仏教に出会うということは、遇い難いものに出会わさせていただきた事を表します。
大経に53仏と書かれているが、大経には、異訳が存在する。
5存7欠(ごぞんひちけつ)と言われ、現代には5つの意訳しか存在しない。
・仏説無量清浄平等覚経(後漢)
・仏説阿弥陀三那三仏薩楼檀過度人道経(呉)
・仏説無量寿経(魏)
・無量寿如来会(唐)
・仏説大乗無量寿荘厳経(宋)
浄土真宗本願寺派では、魏訳の仏説無量寿経を正依(拠り所とする)の経典とします。根本経典とします。
なかでも、世にお出でになる仏の数が、翻訳された時代によって様々です。
ですので、53という数字が特別な意味を持っているのではなくて、それほど遇い難いものだったと捉えます。
ゆっくりですが、地道にコツコツと更新していけたらと思います。。。