新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

普放無量無辺光 - 一切群生蒙光照

(書き下し)
あまねく無量・無辺光、無礙・無対・光炎王、
清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る
(現代語訳)
本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・
清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・
超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を
照らし、すべての衆生はその光明に照らされる
今回は、十二光について解説します。
仏様の働きを、12の光の働きであらわされています。
無量・無辺光・無礙・無対・光炎王・清浄・
歓喜・智慧光・不断・難思・無称光・超日月光
の12の光です。
どうして阿弥陀様の一仏の働きを12の光にあらわされたのでしょうか。
それは、私という人間を喩えるなら、
・両親からすれば、私という存在は「息子」であり、
・二人の姉からすれば、私は「弟」であり、
・ご門徒さんからすれば、「副住職」であります。
・友達からすれば、私は「友達」という存在なのです。
私という唯一の存在ですが、働きによって名前が異なります。
しかし、名前は異なれども私の存在は何一つ変わることはない存在だったのです。
正信偈の中に、12もの光で喩えられているが、最も大切なものは何か??
親鸞聖人は、唯信房に宛てた手紙の中で仰せになります。
「12光仏について、十分ではありませんが書き記しました。
要するに、無碍光仏と申し上げることを基本になさってください。
無碍光仏は、いっさいの衆生の恐ろしいほどの罪悪であっても、
妨げなくお救いくださることを教えるために、無碍光仏と申すのである」
とあります。天親菩薩も、
「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」
とおっしゃっております。親鸞聖人は、名号本尊として
「帰命尽十方無碍光如来」と、書写して多くの門弟に贈られました。
障碍されることない如来様の光は、十方に至り届くことをあらわしています。
その障碍されることのない光は、私が浄土に生まれたいと思う心が起こらなくとも、
どんな欲望にまみれた私であっても、必ず照らさないことはないという事です。
まさに、私を目当てとした阿弥陀様の光は、私の本質を見越して、
どのような条件をもつけない、先に手立てを用意してくださった
阿弥陀様なのでありました。
(難しくなります)
十二光について、一つ一つ解説していきます。
〇無量光・・・数が多いことを表し、光明が過去より時間的に無量であることを表す
〇無辺光・・・空間的に無辺であることを示し、十方の国を照らす光明である。
※無量光と無辺光について
時間的に無限を表す無量光と対になって、阿弥陀様の光明は時間的・空間的に無量であることを示している。
〇無碍光・・・何ものにも妨げることのできない光で、無碍光は物理的
にも煩悩に対しても妨げられない、光明の働きが絶対であることをいう。
〇無対光・・・阿弥陀仏の光明が、他の光に比較して絶対的に優れている
〇炎王光・・・「正信偈」には光炎王とあり『大経』には炎王光とある。
炎が盛んで光の中の王様という意味
※無碍光、無対光、光炎王・・・勝れた光
〇清浄光・・・法蔵菩薩が貪欲の心を無くして得られた清らかな光で、
衆生の穢れた不浄の心を照らし、淫欲・財欲の罪を取り除いてくれる光である。
〇歓喜光・・・衆生の心にある、いかり・はらだち・そねみ・妬みの瞋恚の心罪を滅して、歓喜の心を与える光です
〇智慧光・・・愚痴の心を滅して、仏に成りたいと思う心を起こさせ、念仏を
信じる心を生じさせ、愚痴の心をはなれて、仏に成るべき身とさせていただく心
※清浄光、歓喜光、智慧光・・・貪欲、瞋恚、愚痴をも破る光
〇不断光・・・阿弥陀さまの光明は常に照らし続けているという意味で、
この不断の光明によって信心を獲ることができ、また獲たあとも、
浄土に至るまで常に護っている光り
〇難思光・・・難思とは難思議のことで仏さまの徳は私たちの思いを超えた
ものであるから、不可思議の徳である
〇無称光・・・阿弥陀様のお徳が不可思議ですから、光明のお徳もまた、
言い尽くすことができないほどの具わっているということ
※難思光、無称光・・・あらわすことの出来ない仏
〇超日月光・・十二光の締めくくりとして、身近な日月のはたらきを譬えに引かれて示されたもの。この超とは月日を超えすぐれたもので、何ものにも譬えることのできない素晴らしいものです
※12の光で喩えてみたが、太陽・月の光よりも超え勝れ、表し尽くせない
最もすぐれたものである。