(意訳)無量の命をもち永遠の慈悲で私たちを救い、無量の光をもち真実の智慧で
私たちを照らしてくださる阿弥陀様に帰依します。
(書き下し)無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
実は、この二句は両方とも「阿弥陀仏に帰依します」って意味なんです。「帰命」と「南無」は同じ意味で「帰依」、
「無量寿如来」と「不可思議光(仏)」は阿弥陀様を指しています。
無量寿とは無量の命(寿)であり、永遠の命・時間的無限を表します。
いついかなる時でも私を救います。見放したりしません。
そのため、私のように「あッ忘れてた」という事がありません。
一刹那とも絶えることのない救いであります。
ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見しましたが、発見する事実の前後も変わらず
万有引力は私たちに等しく働いています。発見しようが発見しまいが万有引力は私にも生きとし生けるもの
すべての命に等しくはたらいています。
普遍の真実とは、万有引力のごとく等しく私に至り届き、私の行いによって救いの力が変わるというものではありません。
不可思議光とは、私たちの思いはかることの出来ない光つまり無量の光です。
「普く十方衆生を救う」というように、太陽の光と違いどこでも照らす光は、どんなに逃げる私をも照らしてくれます。
どんなに逃げても照らしてくれるのだから、光という救いから逃げることは出来ないのです。
喩え話として、私たちは暗闇の部屋にいます。
暗闇の中で生活していたら、いくら外が明るい場所だとしても、光を見たことがなければ
自分の居る場所が暗闇だとは気付きません。外に出てみて、やっと気づくのです。「なんで暗い部屋にいたのだろう」と。
暗闇であったというのは、仏教に出会っていなかった。光はいつも私に至り届いていたのに、
私の煩悩という部屋が光を塞いでいたのでした。
阿弥陀様は本当にありがたいお方ですね。部屋の暗闇という煩悩にまみれた、
そのままを光照らしていただき、そのままのお救いなんですから。
「子供は親の愛情に包まれていても、子供は気づかない」なんて喩えもあります。
本当に阿弥陀様はありがたく、頭もあがりません。
このように、「永遠の時間」と「どこへでも届く光」の阿弥陀様ということは、時間的・空間的に無量なのですから、
必ず私は救われる身となり、安心してお浄土に行くことが出来ますね。
喜ばしいことです。ナモアミダブツ ナモアミダブツ
(ここから難しくなります)
この二句は、帰敬序とも言われる。総讃と言い表した方が分かりやすいかもしれないですね。
この二句が阿弥陀様を讃えることによって、正信偈全体の序文に当たります。
正信偈は、親鸞聖人が作られた歌ですが、そこに登場する単語は、インド・中国から渡ってきたものです。
そのため、インドのサンスクリット語で「ナマス」という言葉が、中国に渡ったときに無理矢理に音訳で漢字に変換されて、
「南無」という当て字になりました。
意訳では「帰命」となります。そのため、サンスクリット語では「ナマス」という一言で通じる言葉でも、
中国で翻訳された事により音訳と意訳の二つの言葉が存在するので、紛らわしいことになります。
現代語訳しますと、「帰命」「帰依」「拠り所とする」「お任せする」となります。
阿弥陀とは、サンスクリット語の「アミターバ」「アミターユス」の音写である。「アミタ」は無量です。
それらを意訳すると「アミターバ」は「無量光」、「アミターユス」は「無量寿」となります。
無量の光は苦悩を抱え、煩悩まみれの私を照らし導いてくださる智慧であり、無量寿つまり無量の命は、
永遠の命で私を救い、そばで見守ってくださる慈悲であります。
そのため、阿弥陀という一つの言葉であっても、智慧と慈悲の阿弥陀様といわれる由来です。
ブッダ→仏(陀)→如来と示すと分かっていただけると思います。
音訳 | サンスクリット語(梵語) | 意訳 | 現代語訳 |
南無 | ナマス | 帰命 | 帰依する・お任せする |
阿弥陀 | アミターバ・アミターユス | 無量光・無量寿 | 智慧・慈悲 |
仏(陀) | ブッダ | 如来 | 如来・覚者・悟った人 |