新しいお寺のかたち

専明寺(下松市)浄土真宗

そもそも正信偈とは何でしょうか

「帰命無量寿如来」  (きみょ~むりょ~じゅにょらい~)から始まる、親鸞聖人が考えられた今でいう歌であります。
お経を見るとふりがなはあるけど、漢字ばかりで全然意味が伝わってこないと思います。しかし、鎌倉時代では漢語で本を書くこともあったので、日本人が書いたものでも全部漢字という書物はじつはたくさんあります。
親鸞聖人はわざと難しい本を作ってやろうという意地悪な考えで作られた訳ではなく、漢字で書くことが普通の時代でありました。その内容については、阿弥陀様の話・釈尊の話・7人の高僧の話について書かれてあります。常日頃、なんとなしに読んでいる正信偈は、一つひとつの文章に大切な意味があったのです。
また、お経を唱えることは、「先祖供養のため」「魂を鎮めるため」「自分の心が休まるため」、これらのためにお経を唱えている訳ではありません。
正信偈は讃歌であり、親鸞聖人が仏の恩の深いことを信じ喜んで、正信偈を作られました。
その聖人が作られた歌を、私たちも一緒に唱えることによって、阿弥陀様・釈尊・7人の高僧を讃え唱えるのです。
(以下は説明が難しくなっています。)
正信偈とは、正信念仏偈の略であり、今の和讃6首を加えた形は蓮如上人(1415~1499)から始まりました。それ以前は「礼讃」を唱えていました。正信偈とは、「帰命無量寿如来」から「唯可信斯高僧説」のことを言います。
この正信偈の構成は、帰敬序・依経段・依釈段の三つに分けることができる。帰敬序とは「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句であり、依経段とは「法蔵菩薩因位時」から「難中之難無過斯」までであり阿弥陀様の歴史・救いについて述べられる部分と釈尊の話について述べられる部分にあたります。
依釈段とは「印度西天之論家」から「唯可信斯高僧説」 までであり、インド・中国・日本の七人の高僧の教義(教えの内容・体系・教理)について述べられてあります。
この高僧について、「弘経大士宗師等」から「唯可信斯高僧説」までは、これらの教えは諸高僧の独立した教義ではなく、釈尊から一貫した教えであり、正信偈の総括の部分でもある。この結びの言葉をいただく私どもは、親鸞聖人のおっしゃる通り、釈尊・七祖の説かれた教えを信じる以外に、私が救われる道はないのです。
正信偈とは、現代語訳すると「正信の歌」ということができる。「正信」とは、邪行・雑行など誤りの反対の言葉であり、
「偈」とは現代でいうと「歌」にあたります。もっと詳しく言うと、「正信」とは、阿弥陀様の願力により与えられた信、「偈」とは、文字の数を定め、仏徳をほめたたえる歌です。
次回からは「帰命無量寿如来 南無不可思議光」についての説明に入ります。