「もったいない」と「なんまんだぶ」

「もったいない」という言葉

「もったいない。」 これは、私たち日本人にとって古来より馴染み深い言葉です。しかし近年、改めてこの言葉が世界的に見直されるきっかけがありました。

世界で初めて環境分野においてノーベル平和賞を受賞された、ケニア共和国の元環境副大臣、故ワンガリ・マータイさんが、かつて日本を訪れた際に「もったいない」という言葉とその深い意味(単に「無駄遣い」だけでなく、自然や物への敬意、感謝を含む)を聞かれ、大変感銘を受けられたそうです。そして、この「もったいない」という言葉を、環境を守る世界的な標語(スローガン)として広めようと、運動を展開されました。

そのおかげもあってか、一時期、テレビなどのメディアでも「MOTTAINAI」としてその活動が紹介され、私たちの耳にも随分と届くようになりました。ワンガリ・マータイさんが「もったいない」という言葉をおっしゃっているのを聞くと、もともとは日本の言葉なのに、まるで海外から入ってきた新しい言葉のようにも錯覚してしまうほど、その響きは新鮮でした。

お年寄りが口にした「もったいない」

この「もったいない」という言葉を聞くと、かつてお寺の法座(ほうざ:法話会)などで、多くのお年寄りの方々が、よく口にしておられた情景が思い起こされます。

ご法話を聞きながら、あるいは終わった後などに、静かに手を合わせ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ、ああ、もったいない、もったいない…」と、誰に言うともなく、有り難そうに、そしてどこか喜びに満ちた様子でつぶやいておられた、あの姿です。それは、特定の一人だけではなく、その時代のお念仏を喜ばれた多くの方々に共通していたように思います。

忘れてしまった「おかげさま」

以前のご門主様(浄土真宗本願寺派のご門主)がお書きになった文章の中に、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という有名な一節を解説された部分があります。その小見出しの一つに、こうありました。

「おかげさまでの心を思い出しましょう」

「思い出しましょう」ということは、裏を返せば、「今のあなたは、その大切な心をもう忘れてしまっていますよ」という、私たちへの厳しい問いかけにもなっているのではないでしょうか。

文明の進歩と心の豊かさ

私たちが暮らすこの現代の日本は、科学文明が目覚ましく進歩し、日々の生活はどんどん便利になってきております。しかし、その一方で、生活が便利になればなるほど、かつての人々が持っていたような「心の豊かさ」は、むしろ失われていっているように感じるのは、私だけでしょうか。

「なんまんだぶ、なんまんだぶ、もったいない、もったいない」と、いつも仏さまの教えを喜び、感謝していた、あのかつてのお年寄りたちの命のなかには、真実の親さまである阿弥陀さまのお慈悲が、満ち満ちていたように思います。物質的な文明は、今ほどには発達してはいませんでしたが、そこには確かに、如来さまのお慈悲につつまれて生きる、いのちの喜びの姿がありました。

私に届く「南無阿弥陀仏」

なんまんだぶと いのちに届き
なんまんだぶと 口から溢(あふ)れ
なんまんだぶと 耳に聞こえる

ややもすると、私たちは日々の生活の中で、自分は一人きりだ、孤独だ、と思いがちであります。しかし、決してそうではありません。阿弥陀如来さまが、いつも、どんな時も、この私とご一緒でありました。

私が仏さまを信じたから、阿弥陀さまが私のところへ来て下さったのではありません。この私が、どのような心の状態であろうと、どのような行いをしていようと、「そんなあなたの命を、この阿弥陀が救わずにはおれません」という、阿弥陀さまの側からの、一方的な、しかし力強いはたらきかけ、そのお姿こそが、「なんまんだぶ(南無阿弥陀仏)」そのものなのであります。

ご恩報謝のお念仏

その、私に向けられた阿弥陀さまのよび声を聞かせていただいたら、たとえ悲しみや寂しさの中にあっても、「ああ、よかった」「有り難うございました」「私は、このままで、すでに阿弥陀さまに救われておりました」と、心から頷(うなず)き、お浄土へと向かわしめられていく、いのちの喜びが、阿弥陀さまから与えられていくのです。

なんまんだぶ、もったいない。

この有り難さ、もったいなさに気づかされた私たちが、させていただくことは、ただ一つ。阿弥陀さまへのご恩報謝(ごおんほうしゃ)、感謝のお念仏を申させていただくことであります。

-法話