はじめに:正信偈とこの言葉の大切さ
正信偈とは?
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん、1173-1263)がお書きになった『正信念仏偈』は、浄土真宗の教えの中心となる大切なお言葉です。毎日のお勤めや法要で読まれ、浄土真宗の教えを学ぶ上で欠かせないものとされています。『正信偈』は、親鸞聖人が阿弥陀さまの本願力による救いの真実を、詩の形で讃えられたものです。
この言葉「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」
今回は、『正信偈』の中でも特に、阿弥陀さまの救いが誰にでも平等に開かれていることを力強く示す「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」(ぼんしょうぎゃくほう さいえにゅう、にょしゅすい にゅうかい いちみ)という句について、わかりやすく解説します。この句は通常、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」(よくいちねんきあいしんをほっすれば、ぼんのうをだんぜずしてねはんをうるなり)という句の後に続きます。
なぜこの言葉が大切なの?
この言葉は、阿弥陀さまが「どんな人でも必ず救う」と誓われた本願によって、全ての人が分け隔てなく救われ、最後には完全に平等な境地に至ることを示しています。浄土真宗の救いの核心を表す、非常に重要な言葉なのです 1。
書き下し文と現代語訳
【原文】
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
(ぼんしょうぎゃくほう さいえにゅう にょしゅすい にゅうかい いちみ)
【書き下し文】
凡聖(ぼんしょう)・逆謗(ぎゃくほう)、斉(ひと)しく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅすい)、海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。
【現代語訳】
凡夫(ぼんぶ)も聖者(しょうじゃ)も、五逆(ごぎゃく)の重い罪を犯した者も仏法(ぶっぽう)をそしる者も、みな等しく阿弥陀さまの救いを信じ受け入れるならば、それはまるで、様々な川の水が大海(たいかい)に流れ込んで区別なく一つの味になるように、誰もが平等に救われるのです 。
句の意味を読み解く:言葉一つひとつの意味
この句を理解するために、言葉を分解して見ていきましょう。
言葉 | 読み方 | 簡単な意味 | 大切なポイント |
凡聖 | ぼんじょう | 凡夫(普通の人)と聖者(悟りに近い人) | どんな立場や状態の人も含む、すべての人々 |
逆謗 | ぎゃくほう | 重い罪を犯した人と仏法をそしる人 | 最も救われがたいような人さえも見捨てない、阿弥陀さまの深い慈悲 |
斉回入 | さいえにゅう | 等しく、阿弥陀さまの救いに立ち返り入ること | 救いは誰にでも平等。自分の力ではなく阿弥陀さまを信じる心(信心)が大切 |
如衆水入海一味 | にょしゅすい にゅうかい いちみ | たくさんの川の水が海に入って一つの味になるように | 救われた先(浄土)では、全ての人が完全に平等になることのたとえ |
「凡聖」(ぼんじょう)とは? – あらゆる人々を包み込む
「凡聖」とは、「凡夫」(ぼんぶ)と「聖者」(しょうじゃ)を合わせた言葉です 。
- 凡夫:
私たちのように、煩悩(欲や怒りなど)に振り回され、自分中心に物事を考えてしまう存在のことです。頭が良い悪いということではありません。親鸞聖人もご自身を「凡夫」であるとおっしゃいました。 - 聖者:
仏さまの教えに従って修行し、悟りに近づいている立派な人々です。しかし、浄土真宗では、このような聖者でさえも、最終的には阿弥陀さまのお力(他力)によって救われると考えます。
つまり「凡聖」とは、善人か悪人か、賢いか愚かか、修行が進んでいるかいないかなど、あらゆる区別を超えた全ての人々を指します。阿弥陀さまの救いは、特定の人だけのものではない、ということがまず示されています。
「逆謗」(ぎゃくほう)とは? – 最も重い罪を犯した人さえも
「逆謗」とは、「五逆」(ごぎゃく)の罪を犯した人と、「謗法」(ほうぼう)の人を合わせた言葉です。
- 五逆:
仏教で最も重いとされる五つの罪(父や母を殺す、聖者を殺す、仏さまの身体を傷つける、教団の輪を乱す)のことです。 - 謗法:
仏さまの教えをそしり、否定することです。
この「逆謗」という言葉が入っていることは、阿弥陀さまの救いが、考えうる限り最も重い罪を犯した人や、救いの道そのものを否定する人にまで及ぶという、驚くべき広さを示しています。これは、自分の力では到底救われないような罪深い人(悪人)こそ、阿弥陀さまが最も救おうとされている対象である、という浄土真宗の大切な教えを表しています。
「斉回入」(さい えにゅう)とは? – 等しく阿弥陀さまの救いへ
「斉回入」は、「斉」(さい)、「回」(え)、「入」(にゅう)の三つの部分から成り立ちます。
- 斉:
「ひとしく」「みんな等しく」という意味です。 - 回入:
「回」は向きを変えること、「入」は入ることです。- 向きを変える(回 - え): 自分の力(自力)を頼りにする心や、自分勝手な考え(はからい)から向きを変え、阿弥陀さまのお力(他力)にすべてをお任せする心になることです。
- 入る(入 - にゅう): この心の転換によって、阿弥陀さまの広大な救いの世界(本願海、ほんがんかい)に入ることです。これにより、浄土へ往き生まれることが定まります。
大切なのは、この「回入」が、「凡聖」や「逆謗」といった全ての人々に、等しく起こるということです。阿弥陀さまの救いへの入り口は、阿弥陀さまを信じる心一つであり、そこには何の差別もありません。この信心は、私たちが自分で起こすのではなく、阿弥陀さまからいただくもの(他力回向の信心)とされています 6。
「如衆水入海一味」(にょしゅすい にゅうかい いちみ)とは? – 大海のたとえ
この部分は、前半で述べられた「誰でも等しく救われる」ということを、分かりやすいたとえで示しています。
- 意味: 「それは、たくさんの川の水が大海に入って、どれも同じ一つの味(塩味)になるようなものである」という意味です。
- たくさんの川の水(衆水 ):
きれいな水もあれば、汚れた水もあります。大きな川も小さな川もあります。これは、様々な生まれや育ち、性格や行いを持つ、私たち一人ひとりを表しています。 - 大海:
阿弥陀さまの限りない救いの世界(本願海)や、お浄土、そして究極の悟りの境地(涅槃)を表します。全てを優しく包み込む、広大な存在です。 - 一つの味(一味 -):
海に入ればどんな水も同じ塩味になるように、阿弥陀さまの救いの世界(浄土)に入った人は、誰もが完全に平等になります。過去の行いや身分、善悪などの違いはすべてなくなり、皆が同じ悟りの性質、「一つの味」を持つようになるのです。それはまた、皆が同じ喜びの心を共有する状態でもあります。
このたとえは、ただ皆が同じ場所(浄土)に行くということだけでなく、阿弥陀さまの力によって本質的に変えられ、皆が同じ素晴らしい性質を持つようになることを示しています 11。
この句が示す大切な教え
阿弥陀さまの限りない慈悲(大悲)
この言葉は、阿弥陀さまの慈悲(いつくしみの心)がどれほど深く、広く、どんな人も見捨てないものであるかをはっきりと示しています。海のように全てを包み込む、阿弥陀さまの温かいお心です 16。
他力による救い
私たちの救いは、自分の頑張り(自力)によるのではなく、すべて阿弥陀さまのお力(他力)によるものです。その救いを受け入れる唯一の道が、阿弥陀さまからいただく「信じる心」(信心)であり、それが「斉回入」という言葉に表されています。信心さえいただけば、あとは阿弥陀さまがすべてお導きくださいます。
すべての人が平等に救われる
阿弥陀さまの前では、私たちは皆平等です。現世での善悪や賢愚、身分の違いなどは、救いにおいては何の関係もなく、お浄土では完全に消えて「一つの味」になります。
悪人こそが救われる(悪人正機)
「逆謗」という言葉が示すように、自分の力ではどうにもならない罪深い凡夫(悪人)こそ、阿弥陀さまが本来救おうとされている主な対象である、という「悪人正機」の教えがここに表れています。
大切な注意点:悪を勧めているのではありません
この「逆謗」の人まで救われるという教えを聞いて、「悪いことをしても救われるなら、何をしてもいいんだ」と誤解してはいけません 。浄土真宗は決して悪を勧める教えではありません。
この言葉は、阿弥陀さまの慈悲がどこまで広いかを示すものであって、悪い行いを許すものではありません。阿弥陀さまは、私たちが悪を犯してしまうことを悲しみながらも、それでも見捨てずに救おうとしてくださるのです。悪人正機とは、悪を肯定するのではなく、悪を犯さずにはいられない私たち人間の弱い姿を見つめた上で、それでも見捨てない仏さまの慈悲を強調する教えなのです。救いは、悪にもかかわらず与えられるのであり、悪を行ったから与えられるのではありません。セーフティネットが、落ちることを勧めるのではなく、落ちてしまう人を受け止めるためのものであるのと同じです 。
まとめ:私たちへのメッセージ
「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」という言葉は、私たちに次のような大切なメッセージを伝えています。
- どんな人でも、阿弥陀さまは必ず救ってくださいます。
- 救いは、私たちの行いや能力ではなく、阿弥陀さまのお力(他力)と、それを信じる心(信心)によって成り立ちます。
- 阿弥陀さまの救いの前では、全ての人は平等です。
- お浄土では、全ての人が同じ悟りの境地に至ります。
この言葉は、私たちがどのような存在であっても、阿弥陀さまの限りない慈悲に包まれていることを示し、私たちに深い安心と希望を与えてくれる、温かく力強いメッセージなのです。