はじめに:法蔵菩薩の歩みと『正信偈』
『正信偈』とは:親鸞聖人の教えの核心
『正信偈』は単なる過去の聖人の言葉ではなく、親鸞聖人の信心そのものであり、阿弥陀仏の救いの確かさと、それが私たち凡夫(ぼんぶ)にまで届いていることへの尽きることのない感動と感謝が込められた、今も生きている教えそのものと言うことができるでしょう。
これまでの振り返り:諸仏の浄土の「覩見」
『正信偈』は、親鸞聖人の阿弥陀仏への帰依の表明から始まります。冒頭の二句「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)」は、「限りない命(無量寿)とはかりしれない光(不可思議光)の仏である阿弥陀如来に、私親鸞は帰依し、おまかせいたします」という、救われた喜びの告白です 。
続く第三句から第六句にかけては、阿弥陀仏がまだ仏となる前の「因位(いんに)」において、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と名乗り、その師である世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで修行に励まれた様子が描かれます 。因位とは、仏果(仏のさとり)を得るための原因となる修行の段階のことです 。
特に第五句・第六句「覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん) 国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)」では、法蔵菩薩が世自在王仏の導きによって、二百十億ともいわれる数限りない諸仏の浄土と、それらの浄土がどのような原因(修行・願い)によって成り立っているのか(諸仏浄土之因)、そして、それらの国土に住む人々(人天)のありさま、つまり善い点も悪い点も含めたその実状(国土人天之善悪)を、つぶさに「覩見(とけん)」されたことが示されています 。
法蔵菩薩のこの「覩見」は、後に続く第七句・第八句で語られる「建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)」「超発希有大弘誓(ちょうほつけうだいぐぜい)」へと繋がる、極めて重要な過程です。それは、理想の浄土を構想するための徹底的な調査であり、既存の救済方法では全ての人々、特に最も救われにくい凡夫を救いきれないという痛切な課題認識でした。この深い洞察と、苦しむ衆生への大いなる慈悲の心があったからこそ、これまでの諸仏の誓願を超える、全く新しい、そして最も優れた救いの道(本願)を打ち立てる必要性を強く感じられたのです。この「覩見」という智慧と慈悲に基づく深い思索が、阿弥陀仏の本願を、他のいかなる仏の誓願をも超えた「無上殊勝」で「希有」なものたらしめた根源であると言えるでしょう。
2. 第七句・第八句の書き下し文と現代語訳
親鸞聖人が『正信偈』でお示しくださった第七句と第八句について、その書き下し文と、親しみやすい現代語訳を見ていきましょう。
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- 第七句: 無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、
- 第八句: 希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
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- (法蔵菩薩は、諸仏の浄土とその成り立ちの因、そこに住む人々の善悪のありさまをつぶさに観察された上で)
- この上もなく特にすぐれた願い(無上殊勝願)を、固く打ち立てられ(建立)、
- 世にもまれな広大なる誓い(希有大弘誓)を、(他の諸仏の誓願を)超えて発(おこ)された(超発)のでした。
3. 各句の解説:言葉の意味を深く知る
『正信偈』の言葉には、一つひとつに深い意味が込められています。第七句・第八句に含まれる重要な仏教用語について、浄土真宗の教えに基づいて、その意味を味わってみましょう。
第七句「建立無上殊勝願」の解説
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「建立(こんりゅう)」
- 「建」も「立」も、ともに「たてる」という意味の漢字です。一般的には建物を建てる際に使われますが、ここでは法蔵菩薩が、衆生救済のための壮大な計画、すなわち本願(後の四十八願)を、しっかりと構想し、固く決意して打ち立てられたことを意味します 。
- これは単なる思いつきの願いではなく、諸仏の浄土とその限界を「覩見」するという深い考察に基づいた、実現可能で確固たる救済計画の策定を示す、力強い言葉です 。法蔵菩薩の揺るぎない決意が「建立」という語に表れています。
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「無上殊勝(むじょうしゅしょう)」
- 「無上」とは「この上にない、最高である」という意味です。「殊勝」は「特にすぐれている、とりわけ素晴らしい」という意味を持ちます 。
- 合わせて「この上なく、特にすぐれている」という意味になり、法蔵菩薩が建てられた本願が、他のあらゆる仏さまが建てられた誓願と比較して、衆生を救済するという点において、究極的に優れていることを示しています 。
- その「すぐれている」具体的な内容は、後ほど詳しく述べますが、どのような衆生(善人も悪人も)をも区別なく、阿弥陀仏自身の力(他力)によって平等に救い摂るという点に、その最大の特色があります 。
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「願(がん)」
- 仏教でいう「願」とは、仏さまや菩薩さまが、自ら最高の悟り(仏果)を求めると同時に、迷い苦しむ衆生を救済しようと立てる、深く真剣な誓いのことです 。
- ここでは、法蔵菩薩が阿弥陀仏となるために建てられた四十八項目の具体的な誓願、すなわち「四十八願」全体を指します。そして、その中でも特に、私たち凡夫の往生の要である第十八願(念仏往生の願、至心信楽の願とも呼ばれます)が、この「無上殊勝の願」の中心であるとされています 。
第八句「超発希有大弘誓」の解説
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「超発(ちょうほつ)」
- 「超」は「こえる、超越する」、「発」は「おこす、発する」という意味です 。第七句の「建立」と同様に誓いを起こすことを意味しますが、「超」の一字によって、既存の諸仏の誓願や、従来の仏道のあり方を超え出て、それらを凌駕するほどに画期的で優れた誓いを起こされた、という力強さが強調されています 。
- これは、法蔵菩薩が諸仏の浄土とその救済の限界を「覩見」された結果、それらの方法では救いきれない衆生を救うために、全く新しい次元の誓いを打ち立てられたことを示しています。
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「希有(けう)」
- 「希」も「有」も「まれ」という意味の漢字で、「希有」とは、「きわめてまれなこと」「めったにないこと」「不思議なほど尊いこと」を意味します 。
- 法蔵菩薩の誓願(本願)が、それまでの仏教の常識では考えられなかったような、他に全く例を見ない、画期的で尊いものであることを示しています 。特に、どのような罪深い者(悪人)であっても、煩悩を持ったままの凡夫であっても、一切見捨てることなく、仏自身の力(他力)によって必ず救い摂ると誓われた点が、まさに「希有」なのです。
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「大弘誓(だいぐぜい)」
- 「誓」は「願」と同様に、固い決意や約束を意味しますが、「弘」は「ひろい、広大な」という意味を持ちます 。つまり、「弘誓」とは、その誓いの対象が一部の者に限定されず、あらゆる世界のあらゆる衆生(十方衆生)に及ぶ、極めて広大な誓いであることを示します。
- さらに「大」はその誓いが究極的であり、絶対的なものであることを強調します。「願」が主に内面的な決意を表すのに対し、「誓」はそれを必ず成し遂げるという、外に対する公的な約束、力強い宣言といった意味合いが強まります 。
- したがって、「大弘誓」とは、法蔵菩薩の、この宇宙の生きとし生けるものを一人残らず救わずにはおかない、という広大無辺にして絶対的な決意表明そのものなのです。
4. 二句の関係性と誓願の背景:なぜ「無上殊勝」「希有」なのか
『正信偈』の第七句と第八句は、単に並んでいるのではなく、法蔵菩薩の深い思索と決意の過程を示す、密接な繋がりを持っています。そして、その誓願がなぜ「この上なくすぐれ(無上殊勝)」「きわめてまれ(希有)」であるのかを理解することが、阿弥陀仏の救いを深く味わう鍵となります。
「覩見」から「建立」「超発」へ:法蔵菩薩の思索の深さ
第七句・第八句に示される法蔵菩薩の誓願の建立は、第六句までの「覩見」という過程なくしてはありえませんでした。法蔵菩薩は、師である世自在王仏に導かれ、数限りない諸仏の浄土をただ漫然と眺めたのではありません。それぞれの浄土がどのような願いや修行(因)によって成り立ち、そこに生まれた人々(人天)はどのような状態(善悪)にあるのかを、徹底的に、そして深く見極められたのです 。
その詳細な観察と深い思索の結果、法蔵菩薩は重大な事実に気づかれます。それは、既存の浄土やそこに至るための修行方法は、それぞれに尊いものではあっても、自らの力で厳しい修行を完成させることができない私たち凡夫、煩悩にまみれ罪を重ねてしまう悪人といった、最も救われにくい存在を、完全には救いきれないという限界がある、ということでした 。このままでは、多くの衆生が迷いの世界から抜け出すことができない。この痛切な課題認識と、苦しむ衆生を見過ごすことのできない広大なお慈悲の心(大悲心)が、法蔵菩薩を動かしたのです 。
「これまでの方法ではだめだ。すべての者を、一人も漏らさず救うためには、全く新しい、これまでの限界を超える道を作らなければならない」。この強い決意が、「建立」そして「超発」という、確固たる意志を示す言葉で表現される「無上殊勝」で「希有」な本願(四十八願)の策定へと結実したのです。
この一連の流れは、仏教が説く「智慧(ちえ)」と「慈悲(じひ)」の働きの見事な現れと言えるでしょう。法蔵菩薩は、諸仏の浄土を「覩見」するという優れた智慧によって、既存の救済方法の限界を正確に見抜き、その上で、苦悩する衆生への深い慈悲の心から、その限界を超える全く新しい救済の法(本願)を「建立」し「超発」されたのです。智慧が慈悲の向かうべき方向を明らかにし、慈悲が智慧を具体的な行動、すなわち誓願の建立へと突き動かした、と味わうことができます。阿弥陀仏の限りない慈悲は、その根底に、衆生のありさまと救いの道を正確に見抜く深い智慧を伴っているのです 。
他の浄土を超える誓願:凡夫・悪人こそ目当て
法蔵菩薩が建てられた誓願が、なぜ「無上殊勝」(この上なく特にすぐれている)であり、「希有」(きわめてまれ)なのでしょうか。その最大の理由は、その救いの対象が、私たち凡夫、悪人におかれている点にあります。
多くの仏道修行(聖道門といわれます)では、自らの力(自力)で厳しい戒律を守り、善行を積み重ね、瞑想などによって煩悩を断ち切って悟りを目指します。しかし、私たち凡夫は、生まれながらにして煩悩(欲や怒り、愚痴など)を抱え、なかなか善行を続けることも、煩悩を完全に無くすこともできません 。そのような自力での修行が到底不可能な、私たちのような煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、罪を犯してしまう可能性を常に持つ悪人こそを、阿弥陀仏は救いの主要な対象として見定めてくださったのです 。
親鸞聖人は、主著『教行信証』や、そのお言葉を記録したとされる『歎異抄』(たんにしょう)の中で、この阿弥陀仏のお心を「悪人正機(あくにんしょうき)」という言葉で明らかにされました。特に『歎異抄』第三条の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は有名です 。これは、「自力で善を成し遂げられると思っている善人ですら、阿弥陀仏の本願によって往生できるのだから、ましてや、自らの力ではどうすることもできず、阿弥陀仏の救いにすがるしかない悪人が往生できないはずがない」という意味です。一見逆説的に聞こえますが、ここには深い真実が示されています。阿弥陀仏の慈悲の光は、あたかも親が病気の子どもを特に気遣うように(七子の譬え )、弱い者、苦しむ者、そして自らの罪深さに気づき、他に頼るすべのない者へと、より深く、より温かく注がれるのです。
この「悪人こそが阿弥陀仏の救いの目当てである」という悪人正機の教えこそ、他の諸仏の誓願には見られない、阿弥陀仏の本願の最も「希有」であり、「無上殊勝」な点なのです。それは、決して悪を肯定するものではなく、私たち人間が持つどうしようもない弱さ、限界(凡夫性)への深い洞察に基づいています。程度の差こそあれ、誰もが自力では完全な善を達成できず、煩悩から逃れられない「悪人」であるという厳しい自己認識があるからこそ、阿弥陀仏の「他力」による無条件の救いが、すべての人に向けられた、真に平等で普遍的な救いとなるのです。
他力による救い:阿弥陀仏の大いなる慈悲
法蔵菩薩の誓願が「無上殊勝」「希有」であるもう一つの重要な理由は、その救済の方法が「他力(たりき)」に基づいている点です 。
「他力」とは、私たち自身の力(自力 じりき)ではなく、阿弥陀仏の本願力(ほんがんりき)、すなわち仏さまが私たち凡夫を救うために、気の遠くなるような長い時間(五劫思惟 ごこうしゆい )をかけて選び取り、完成してくださった絶対的な救済力のことを指します。私たちの側の努力や能力、善行の程度などを往生の条件とするのではなく、阿弥陀仏がすべてを用意し、完成された救いを、私たちがただ疑いなく信じ受け入れる(信心 しんじん)ことによって、浄土へ往き生まれ、仏と同じ悟りを開くことができるのです 。
この他力による救いは、厳しい修行を積むことができない者、善い行いを続けることが難しい者であっても、阿弥陀仏の側からの積極的な働きかけ(本願力であり、それが形となった名号「南無阿弥陀仏」であり、その功徳を私たちに向ける「廻向 えこう」)によって、誰もが平等に救われる道を開くものです。これこそ、自力による救済が主流であった従来の仏教から見れば、まさに「希有」な救済方法と言えるでしょう。阿弥陀仏の限りない大慈悲心 が、この「他力による救い」という具体的な形をとって、私たちに差し向けられているのです。
他力本願の教えは、決して人間の努力や善行を否定するものではありません。しかし、それらが浄土往生の直接的な原因ではない、と明確にするところに浄土真宗の大きな特徴があります。救いの根源は、あくまで阿弥陀仏の本願力にあり、私たちの側の行いは、その救いをいただいたことへの感謝の表現(報恩行 ほうおんぎょう)として自然に現れてくるものと位置づけられます。この徹底した他力の視点こそが、浄土真宗の教えを他の仏教宗派から際立たせている核心部分であり、法蔵菩薩の誓願が「無上殊勝」「希有」であることの、もう一つの重要な理由なのです。
5. まとめ:私たちに向けられた阿弥陀仏の願い
『正信偈』の第七句「建立無上殊勝願」と第八句「超発希有大弘誓」は、阿弥陀仏の救いの核心に触れる、私たちにとって非常に大切な句です。
第七句・第八句が示す教えの要点
これら二句は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、私たち凡夫、特に自力での救済が困難な悪人をも決して見捨てることなく救うために、他の諸仏が立てたどのような誓願をも超え出る、この上なく優れた(無上殊勝)、他に例を見ない(希有)広大な誓い(大弘誓)を、深い思索(覩見)と固い決意をもって(建立・超発)建てられたことを示しています。
その誓願の根本は、阿弥陀仏の限りない大慈悲にあります。そして、その救済の方法は、私たちの側の努力や能力(自力)に頼るのではなく、阿弥陀仏が完成された力(他力)によって、ただ信じ念仏申す者を、必ず浄土へ迎え入れ、仏と同じ悟りを開かせるという、絶対的な救済の約束です。
現代を生きる私たちへのメッセージ
私たちは、現代社会の中で、様々な悩みや苦しみを抱え、自分の力の限界を感じ、時には絶望的な気持ちになることもあるかもしれません 。しかし、『正信偈』のこの第七句・第八句は、そのような私たち凡夫こそが、阿弥陀仏の救いの真ん中にいる存在であり、決して見捨てられることはないのだと、力強く教えてくださっています。
阿弥陀仏は、私たちがこの世に生まれる遥か以前、法蔵菩薩として修行されていた時に、すでに私たちの苦悩のありさまを見抜き、「必ず救う」という誓いを立て、その救いの道を完成してくださいました。その完成された救いの力が、「南無阿弥陀仏」という名号(みょうごう)となって、時空を超えて、今、この私にまで届いているのです 。
この二句を深く味わうとき、私たちは、阿弥陀仏が私たち凡夫のためにどれほど深く思いを巡らせ、どれほど固い決意をもって誓願を建ててくださったのか、そのご苦労と広大なお慈悲に思いを馳せずにはいられません。そして、その大いなる願いに応える道は、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、すべてを阿弥陀仏にお任せし、感謝の心をもって日々を歩ませていただくことにあると気づかされるのです 。
これらの句は、遠い過去の物語としてではなく、今ここに生きる私たち一人ひとりへの、阿弥陀仏からの温かい呼びかけとして受け止めたいものです。私たちが自身の弱さや至らなさ、罪深さに気づかされる時、その時こそ、阿弥陀仏の「無上殊勝」にして「希有」なる本願の慈悲の光が、最も深く、最も温かく、私たちの心に沁みわたるのではないでしょうか。