「火の車」の世と 阿弥陀さまのまなざし

昔の言葉に「火の車、作る大工は無けれども己が作りて、己が乗り行く」とあります。 燃え盛る苦しみの車は、誰か特別な人が作ったわけではなく、私たち自身がその原因を作り出し、知らず知らずのうちに自らそれに乗り込んでは苦しんでいる、という意味が込められています。

現代に目を向けるとき、私たちの生活は科学技術の進歩などにより、かつてなく便利になった面があります。しかしその一方で、私たちは、自らが追い求め、作り出してきたものによって、新たな苦しみや予期せぬリスク、不安に直面しているのではないでしょうか。健康や環境に対する懸念、複雑化する社会の中での生きづらさなど、形は様々ですが、まさに自分たちで作り出した「火の車」に乗って、右往左往しているかのようです。

私たちは便利さや快適さを求めるあまり、その裏側にある本当に大切なことや、自身のあり方を見失ってしまうことがあります。そして問題に直面して初めて、その根本的な原因が、他の誰でもない、私たち自身の選択や生き方にあったと気づかされるのかもしれません。

阿弥陀さまのまなざし

人間が自ら作り出したものによって、そうとは知らずに苦しんでいる。阿弥陀如来(あみだにょらい)は、そのような私たちの迷いの姿を、遥か昔から「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」であると、深く見抜いておられました。

煩悩、すなわち自己中心的な欲望や怒り、愚かさから離れることができず、それに振り回されて苦しみを生み出してしまう、どうしようもない存在。それが凡夫である私たちです。

しかし、阿弥陀さまのまなざしは、私たちを断罪するものではありません。むしろ、そのような私たちであるからこそ、決してお見捨てにならないという、広大無辺な慈悲(じひ)のお心なのです。

私たちが平生の日暮らしの中で、自分の過ちや愚かさに気づかされる時、「どうせ私たちは愚かな凡夫よ」と開き直るのではありません。「お恥ずかしいこと、申し訳ないこと」と頭を垂れ、懺悔(さんげ)する。その心にこそ、阿弥陀さまの「必ず救う」という呼び声が届いてくるのです。

そのような私たちを、阿弥陀さまは「必ず救う」と、大いなる慈悲の光となり、常に呼びかけ、支え、育んでくださっています。

すべてをおまかせする道

その阿弥陀さまが、今まさに、この私の人生を、この私のすべてを引き受けてくださっているのです。

迷いの岸から自分の力では到底渡ることのできない、智慧(ちえ)浅い凡夫であると見抜かれた私たちは、阿弥陀如来の「必ず救う」という本願に、すべてをおまかせする以外に、真の安らぎをいただく道はありません。

-法話