いのちの根にふれて

「いのちの根」に想う

これは、中日新聞に載っていた「いのちの根」という八木春美さんというお方の詩です。

私のいのちは 私一人のものでなく お父さんお母さんのものです そして お父さんお母さんのものだけでなく それぞれの おじいちゃん おばあちゃんのものです それは また ひいおじいちゃん ひいおばあちゃんのもので もちろん ひいひいおじいちゃん ひいひいおばあちゃんのものでもあります 粗末になんか できますか 不幸になんて なれますか いのちの根は いま 私に託されているのです

この詩にあるように、私のいのちの背後には、両親、祖父母、そしてさらにその先へと続く、無量のいのちのつながりがあります。亡き人を偲びつつ心静かに合掌するとき、私たちは、このいのちの深さ、広さに思いをいたすことができます。

無常の知らせ、生かされて生きる私

すべての生き物は例外なくいのち終わりますが、私たちの普段の生活(平生)は、死ぬことなど忘れて、より豊かに、より有意義にと願って営まれています。それだけに、身近な人の命終(死)は、家族の愛や医療の努力など、人間の力のすべてをもってしても、どうにもならないことがあるという厳粛な事実を私たちに知らせます。そして同時に、この私が「生かされて生きている」という事実を深く噛みしめる、かけがえのないご縁ともなるのです。

亡き人を思う心

亡き人を偲ぶとき、心には様々な思い出が去来します。楽しかったこと、充分にしてあげられなかったことへの後悔、言わなければよかった一言、あるいは優しく叱られたことなど、喜びも悲しみも入り混じって(悲喜こもごも)思い出されることでしょう。

「亡き人を思う心は、亡き人に思われている証拠でもある」ともいわれます。

私たちが亡き人を大切に思う心は、そのまま、亡き人が私たちを大切に思ってくださっていた心の反映でもあるのかもしれません。

仏事のご縁にあう

浄土真宗における仏事は、すべて、亡き人を通して阿弥陀さまからいただいたご恩に感謝し報いる(ご恩報謝)ための営みであり、また、この私自身が教え導かれるための大切な機会であることを心に留めておきたいものです。

私たちは、この一回限りの人生を、本当に悔いなく生きていると言えるでしょうか。 亡き人を敬い、仏事をお勤めするのは、その仏事というご縁を通して、日頃は無常(すべてのものは移り変わり、やがて終わるという真実)を忘れて暮らしているこの私に、人生の厳かな事実に目覚めさせるという、大切なはたらきがあるからです。

このたびの仏事において「南無阿弥陀仏」とお念仏を申させていただく中で、亡き人からの呼びかけ、そして阿弥陀さまからの呼びかけを聞き、私たちに共通するいのち、阿弥陀さまに抱かれた永遠のいのちに目覚めて、今、ここにあるひと時ひと時を、大切に過ごさせていただきたいものです。

-法話