変わりやすい私の心

「凡夫」とはどのような私か(親鸞聖人のお言葉)

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、私たち自身の姿を「凡夫(ぼんぶ)」という言葉で明らかにしてくださいました。『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という書物の中で、次のように示されています。

「「凡夫」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと…」

《現代語訳》 「「凡夫」 というのは、 わたしども(人間)の身には無明煩悩(真実に暗い迷いの心)が満ちみちており、 欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起ってきて、 まさに命が終ろうとするそのときまで、 その心が止まることもなく、 消えることもなく、 絶えることもない、 と…。」

「ポツンと一軒家」での出遇い

テレビ朝日系列の「ポツンと一軒家」という番組があります。皆さんはご覧になられたことありますでしょうか。

この番組は、日本各地の人里離れた場所にポツンと建っている一軒家を衛星写真で探し出し、実際にそこを訪ねて、そこで暮らす人に取材をするという、ドキュメンタリー要素のあるバラエティ番組です。私が最初にこの番組を観たときは、「本当にこんな山奥で、ご夫婦二人とか、あるいはたった一人で住まわれている方がいるのか」と、その暮らしぶり自体に驚くばかりでした。けれども、回を重ねて観るうちに、そこに住んでおられる方々が、どうしてその場所に住むようになったのかという理由や、それぞれの生い立ち、あるいはその土地ならではの魅力や歴史など、むしろそちらのほうに興味を惹かれることが多くなっていきました。そして、この番組はときに、私に仏さまの教えに繋がるような、新たな気づきを与えてくれることもあります。

この番組の中で、特に私の印象に強く残っている回があります。あるご高齢の男性(ここではAさんとします)のお話でした。

Aさんは奥さまを先に亡くされ、その山奥の一軒家で一人暮らしをされていました。しかし、決して寂しそうではなく、一人で畑を作り、薪割りをし、食事をご自分で用意して、日々を楽しそうに暮らしていらっしゃるように見えました。

取材の中で、Aさんはご自身の少年の頃の話をされたのですが、Aさんは毎日小学校へ通うのに、自宅からまず2kmほどの急な坂道を下り、その先にある昼間でも薄暗い小高い丘の森を抜け、さらにその下にまた3kmほど続く上り下りの坂道を歩いて登校していたそうです。

一人でそこを通っていた頃は、「なんでこんな大変な道を通って、毎日学校に行かないといけないのか」と、その通学路が嫌で嫌で仕方がなかったそうです。Aさんにとって、この長く険しい通学路は、自分を苦しめる「障(さわ)り」でしかなかったのです。

しかし、ある日、Aさんの家の近所に、一人の女の子が引っ越してきたそうです。三歳年下の子で、翌日から、Aさんはその女の子と二人で手を繋いで通学するようになりました。それからというもの、行きも帰りもいつも二人一緒で、毎日が楽しくて仕方がなく、今まであれほど嫌だ嫌だと思っていた長い坂道も、薄暗い森も、微塵たりとも苦にならなくなった、と。当時のAさんは、「これが幸せというものなんだなぁ」と、その女の子と登下校する度に、心からそう思っていたそうです。(そのお話を聞いて、私も、自分の遠い青春時代を思い出して、その気持ちが分かるような気がいたしました。)

そこで話は現在に戻るのですが、Aさんは続けてこう話されました。

「それが私の妻です。共に苦労をして、その苦労が(この出会いによって)報われました。」

今から三年前に、その少女時代を共に過ごした奥さまは、先にお浄土に往生されたそうです。Aさんの後ろにあったお仏壇には、その奥さまの写真と阿弥陀様がご安置されていました。

きっかけ一つで変わる心

この回の放送を観て、青春時代から連れ添われた奥様を亡くしたAさんには、きっと言葉にならないほどの深い悲しさ、辛さがあるのだろうと思いを馳せました。しかし、それ以上に私が共感させられたのは、Aさんにとって毎日あれほど嫌だと思っていた通学路が、奥さまとなる女の子との出会いという、たった一つの「きっかけ」によって、逆にこの上ない幸せを感じる道へと、全く意味を変えてしまった、という点でした。

先程のAさんのお話で、毎日嫌々通っていた道が、ある日から「まだ着きたくない、もっと一緒にいたいから帰りたくない」道へと変わったとありましたが、たった一つのきっかけで、私の中のモノの見方、考え方というのは、こうも簡単に変わってしまう。裏を返せば、その時々の状況や、自分の都合という「きっかけ」次第で、良くも悪くも、なんとでも感じ、思ってしまう。それが、この「我が身」の姿なのではないでしょうか。

「凡夫」という私の姿

このような、自分の都合や状況によって、物事の見方や感じ方がくるくると変わってしまう、自己中心的な私の姿を、仏教では「凡夫(ぼんぶ)」といいます。

今回、冒頭でご紹介したお言葉は、浄土真宗を開かれました親鸞聖人が、私たち自身の真実の姿として顕(あら)わしてくださったものです。「凡夫」というのは、他でもない、阿弥陀さまという仏さまがご覧になった、ありのままの「私」の姿なのです。分かりやすく言えば、自分中心のモノの見方、考え方しかできず、その時々の縁によって、心も行いも移ろい変わってしまう、そういう私のことです。

阿弥陀さまの光に照らされて

そして、親鸞聖人は同時に、この私が「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただいているということは、もうすでに、阿弥陀さまの救いのはたらきが、この私の元に届いてくださっている証拠なのだ、ということもお示しくださっています。

阿弥陀さまの智慧の光に私が照らされていたからこそ、初めて「ああ、私は凡夫であった」と、自分自身の本当の姿に気づかせていただくことができるのです。そして、阿弥陀さまは、そんな凡夫であるこの私を、決して見捨てることなく、その大きな慈悲の心でしっかりと抱きとめ(放さず)、お浄土へ至る道を、今、私と一緒に歩んでくださっているのです。

日々を丁寧に

ふとしたきっかけで、「モノの見方、考え方」がいとも簡単に変わってしまう、そういう私の「凡夫」という姿を、今回あらためて深く気づかせていただいた、テレビの中のAさんの回は、私にとって、思いがけずいただいた、大切な仏法とのご縁でありました。

世界に目を向ければ戦争が勃発するなど、緊迫した不安な状況が続いておりますが、このような自分の足元を見つめさせていただくご縁を大切にしながら、一日一日を丁寧に過ごさせていただきたいものです。

-法話