当たり前の落とし穴
病気になってみて、本当に健康というものの有り難さ、大切さに気づかされることがあります。もちろん、健康な時には健康な時で、その大切さに気づいていないわけではないのでしょう。しかし、健康であることが長く続くと、いつの間にかそれに慣れてしまい、ついついそれが「当たり前」のことになって、感謝の気持ち、有り難いという気持ちを忘れてしまいがちです。病気になってみて初めて、心の底から健康の有り難さが分かる、ということはないでしょうか。
夏しか知らないセミ(曇鸞大師のお言葉)
中国の高僧であり、浄土真宗の祖師のお一人でもある曇鸞大師(どんらんだいし、476-542?)は、古代中国の思想家である荘子(そうし)の言葉を借りて、このことを次のように巧みに示しておられます。
「蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず。 伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知らんや」
(意訳:夏の間に土から出てきて、その夏のうちに命終わっていくセミ(蟪蛄)は、春や秋という季節を知らない。その夏という季節の中にしか生きていない虫(伊虫)が、どうして本当の夏(朱陽の節)というものを知り得ようか、いや知り得ない。)
春や秋という季節を知らないセミが、どうして本当の意味で「夏」という季節を知ることができるでしょうか、いや、できない。春や秋という対比があってこそ、初めて「夏」という季節の有り難さや意味が分かるのだ、という譬えです。
いのちの価値に気づくとき
健康ということも、病気ということを抜きにして、その本当の有り難さを知ることはできません。病気という現実を深く見つめ、見つめ抜いて初めて、健康であることの有り難さが、身に染みて分かるのではないでしょうか。しかし、私たちは残念なことに、健康な時には病気ということについて、あまり深く考えようとはしません。
私たちの「いのち」についても、全く同じことが言えます。「死ぬ」ということを抜きにして、「生きる」ということを本当に深く考えることはできないのではないでしょうか。今、こうして生きている、その「いのち」の、かけがえのない大切さに気づいてこそ、私たちは「生かさせていただくいのち」として、この人生を本当に大切に歩むことができるのです。
たとえ、どんなに短い間のいのちであったとしても、その尊さ、有り難さに気づかせていただいたならば、それは十分に生き抜いた人生と言えるでしょうし、逆に、どんなに長く生きたとしても、その価値に気づかないままなのであれば、どこか地に足のついていない、むなしい人生となってしまうのではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏」という目覚め
死んでから気づくのでは遅い。「死ぬ前に」、生きている今、この「いのち」の、本当の有り難さに気づかせていただく。それを可能にするのが、「南無阿弥陀仏」のお念仏の教えなのです。
信心の智慧と本願力(親鸞聖人の御和讃)
親鸞聖人は、その晩年のお作である『正像末和讃』の中に、このようにお示しくださっています。
「智慧(ちえ)の念仏(ねんぶつ)うることは
法蔵願力(ほうぞうがんりき)のなせるなり
信心(しんじん)の智慧なかりせば
いかでか涅槃(ねはん)をさとらまし」(意訳:私たちが智慧のお念仏(真実の念仏)をいただくことができるのは、ひとえに、阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ:阿弥陀さまが仏になる前の名前)であった時に建てられたご本願のお力(本願力)のはたらきによるのである。もし、阿弥陀さまの本願力を疑いなく信じ受け入れる智慧(信心の智慧)がなかったならば、どうして私たちが涅槃(ねはん:究極の安らぎである悟りの境地)をさとることができようか、いや、できない。)
有り難いいのちをいただく
病気になってみないと健康の有り難さに気づけないように、あるいは、失ってみないと本当の価値に気づくことができない、そういう愚かな私。その私こそが、まさしく阿弥陀さまの救いの目当てでありました。
真実をありのままに見ることのできない、この私に、阿弥陀さまは「そのままのあなたで大丈夫だ。必ず仏になってくれよ」と、常に願い、はたらきかけ、呼びかけ続けてくださっているのです。
「当たり前」でしかなかった、この「いのち」が、阿弥陀さまの光に照らされて、かけがえのない「有り難い」いのちであったと気づかされ、ただただ感謝の思いから、お念仏申し上げるばかりです。