心をさらけだせる場所
昨今のコロナ禍にあって、人と人との直接的な関りが以前よりも少なくなりました。そのような中で、改めて私たちが大切にすべきこととして教えられたことがあります。それは、自分の心の奥底にある喜びや悲しみ、不安や怒りといった様々な感情を安心してさらけ出すことができ、そして、本当の自分自身や、自分と関わってくださる様々な存在について深く知ることのできる、そういう「場所」が、私たち人間には必要なのではないか、ということです。
ある青年との出遇い
ある記事にこのような相談が掲載されていました。20代の青年からの相談で、その内容は、次のようなものでした。
「最近、心から尊敬していた会社の先輩が突然亡くなりました。私にとって、人生の指針となるほど大きな存在だった先輩でした。身近な人が亡くなったという経験が、実はこれが初めてで、今、とても辛いです。他の親しい人達も、いつかは必ず亡くなるのかと思うと、怖くてたまりません。いっそ、その前に自分が先に死んでしまったほうがましなのではないか、とさえ考えてしまいます。死への恐怖で、夜、部屋の電気を消して眠ることもできません。」
その青年は、いわゆる自粛生活の中で、一人で考え込む時間が多くなり、普段は抑えられていた苦しみや悲しみがあふれ出てきてしまい、誰にも言うことができないとのことでした。
この彼が抱えていた苦悩は、決して特別なものではなく、多くの方々が人生で経験し、感じておられる種類のものだと思います。そして、その苦悩に対して「仕方のないことだ」「いつまでも引きずっていても仕方ないから、忘れよう」などと、無理に心に蓋をして、何とか日々の気持ちを保とうとしておられる方も、また多いのではないでしょうか。
私自身も、過去を振り返れば、同じような思いを抱いた経験があります。しかし、幸いなことに、私には、亡くなられた方との別れの悲しみだけでは終わらない、南無阿弥陀仏の「教え」に出遇わせていただき、そこから生きていく力をいただくという尊いご縁がありました。
死んで終わらない いのち
その「教え」の内容を具体的にお話ししますと、まず一つは、私たちの「いのち」は、この世の死をもってすべてが終わってしまうものではない、ということです。この青年の上で言えば、亡くなられた先輩は、これまで彼の人生にとって大きな心の支えであったと思います。では、亡くなられた後は、もう無意味な存在になってしまうのかといえば、決してそうではない、ということです。たとえ肉体は滅び、この世での直接的な触れ合いは失われたとしても、いのちそのものの繋がり、心と心の触れ合いは、決して終わることはない、ということです。
そして、もう一つが、その終わらない「いのち」の行き先、その意味合いについてです。浄土真宗の教えでは、亡くなったすべてのいのちは、阿弥陀さまのお導きにより、お浄土に往き生まれて「仏さま」になられた、と受け止めます。「仏さま」とはどのような存在かについては、様々な見方がありますが、私にとっては、私たちを真実へと導いてくださる「導師(どうし)」(導き手)という意味合いが、大きな救いとなっています。つまり、青年にとって、亡き先輩のいのちは、彼を導き、仏法に手を合わせる身へと育ててくださる、尊い「導師」となられたのです。
さらに言うなら、教えの上では、すべてのいのちが分け隔てなく仏さまになるとみるのですから、彼自身も、そしてこの私もまた、将来必ず仏さまになる身なのです。尊敬する先輩と、いずれ自分も「仏さま(導き手)」という同じ立ち位置に立たせていただける。この事実は、亡くなられたことへの悲しみが消えるわけではありませんが、絶望の中に少し違った視点を与えてくれるのではないでしょうか。
光を聞く力「聞光力」
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のお言葉の中に、「聞光力(もんこうりき)」という少し難しい言葉があります。本来、「光」というものは、目で見て、ものを照らし・照らされるものであって、耳で「聞く」ものではありません。では、親鸞聖人はどういった意味で、この「聞光(光を聞く)」という言葉を使われたのでしょうか。
ここで大切なのは、親鸞聖人が指し示す「光」とは何か、ということです。それは、私たちを照らし導く、阿弥陀さまの智慧であり、慈悲であり、すなわち阿弥陀さまの「教え」そのものを指しているのです。ですから、「聞光力」とは、難しく言えば「教えが聞こえてくるところに現れる力」ということですが、言い換えれば、阿弥陀さまの「教え」は、私の、あるいは今回で言えば、苦悩していた青年の心の闇を照らす「光」であり、同時に、その闇の中から立ち上がって生きていく「力」となる、ということです。
お聴聞の場の大切さ
お寺にお参りすると、ご本尊の阿弥陀さまを仰ぎ見て、手を合わせ、喜んでいらっしゃる方のお姿を目にすることがあります。もちろん、仏さまを仰ぎ尊ぶことは、それ自体が大変尊いことです。ただ、私たちが忘れてはならないのは、その仰がせていただいている阿弥陀さまには、私たちに向けられた明確な「目的」があるということです。それは、「あなたも苦しいだろうね」という単なる同情や哀れみだけではありません。この私を含め、悩み苦しむすべてのいのちを、必ず仏と同じ覚りの世界に生まれさせる(仏にする)という、はっきりとした目的を持っておられるのです。
お寺などの場所で、阿弥陀さまの「教えを聞く(聴聞する)」ということは、私たちの人生を歩む上で、いつでも、どこでも、阿弥陀さまが私の確かな支えとなり、力となってくださることが聞こえてくる、ということです。そういった意味で、親鸞聖人は、阿弥陀さまの教えを、人生の闇を照らす「光」として仰いでいかれたのであります。
「浄土真宗は聴聞(ちょうもん)に尽きる」という言葉があります。お念仏を申す私たち(念仏者)にとって、阿弥陀さまのみ教えを聞かせていただくことは、日々の生活の要(かなめ)であり、これまで、お寺の本堂や、ご家庭のお仏壇の前などで、大切にお聴聞のご縁が営まれてきました。
しかし現在、インターネットの出現に昨今のコロナ禍が拍車をかけて、場所を問わずに、パソコンやスマートフォンの画面上でお聴聞できるご縁が急速に増えています。このこと自体は、より多くの方々が、より多くの機会で、み教えに触れることができるという、大変有難い側面があります。その一方で、これまでのようにお寺という「場所」に集うことや、ご家庭の「お仏壇」の前で手を合わせること、そして「お聴聞」という行いそのものの意義が、改めて私たち一人ひとりに問われているようにも感じます。
私にとって、自分自身の弱さや本音を安心してさらけだし、深く自分自身を見つめることのできる「場所」として、ご自宅の御仏壇の前や、そしてやはりお寺という空間が、これからも大切であり続けるのではないかと思うのです。