気づかぬうちに導かれて

消えた「目印」

あるご門徒のお宅へお参りに伺う道中の出来事です。目的地近くには長い直線の道路があり、その途中のT字路を左折すれば、その先にお宅がある、という道順でした。しかし、その日、私はどういうわけか、その曲がるべきT字路をうっかり通り過ぎてしまったのです。

「あれ?」とは思いつつも、特に慌てずに安全な場所でUターンをして、再び同じ直線道路を走りました。ところが、不思議なことに、私はまたしても同じT字路を通り過ぎてしまいました。これにはさすがに少し不安になりましたが、気を取り直してもう一度Uターンをし、三度目は「今度こそ間違えないぞ」と、ゆっくりとT字路があるはずの場所をよく確認しながら車を進めました。

ところが、信じられないことに、私はまたそのT字路を通り過ぎてしまったのです。一体これはどういうことかと、一旦車を路肩に止めて、周辺をよくよく確認してみました。すると、ある事実に気が付きました。実は、いつも目印にしていたそのT字路の角には、古い小さな小屋が建っていたのですが、いつの間にかそれが解体されて更地になっていたのです。

「なるほど、そういうことだったのか」と腑に落ちました。私は、道順から何から、すべて自分の記憶と判断で運転しているつもりでいました。しかし実際には、そうではなかったのです。私は無意識のうちに、角にあったあの古い小屋を「目印」として頼りにしており、ただそれに導かれるようにして、いつもT字路を曲がっていたに過ぎなかったのです。その目印がなくなったことで、曲がるべき場所が分からなくなってしまっていたのでした。

知らず知らずのうちに導かれて

そう気づいたときに、はっとしました。まさに私たちの人生という道のりも、これと同じようなものではないだろうか、と。

歳を重ねていきますと、私たちはつい、「今の自分があるのは、他の誰でもない、自分自身の努力と苦労によって、すべてを築き上げてきた結果なのだ」と思い込んでしまうところがあるのではないでしょうか。もちろん、ご自身の努力や苦労がそこにあったことは、決して嘘ではありません。

しかし、私たちは人生の様々な局面、局面で、あの古い小屋のような「目印」となる存在に、幾度となく出会い、知らず知らずのうちにそれに導かれ、支えられ、助けられて、今日の自分がある。それが偽らざる事実ではないでしょうか。

人生の道しるべ

その「目印」となってくださった存在とは、もしかすると、すでに亡くなられた、今はもう会うことのできない「あの方」かもしれません。あるいは、今もすぐ隣にいて、温かく見守ってくれている「その方」かもしれません。また、それは家族や身内だけとは限りません。友人、恩師、あるいは、ふとした時に出会った誰か、心に響いた言葉、一冊の本かもしれません。そして、きっとそれは一人や一つだけではないはずです。

私たちは、決して自分一人の力だけで生きているのではありません。数えきれないほどの「目印」となる存在やご縁によって導かれ、生かされている。その事実に気づかせていただくということは、私の「いのち」そのものを、より深く、より豊かなものへと変えていく、大切なきっかけとなることでしょう。

仏縁に導かれて

そして今、私たちは、こうして仏さまの教えを聞かせていただく場(お聴聞の現場)におります。このこともまた、考えてみれば、きっと私が何か特別な努力をしたから、たまたま辿り着いた、ということではないのでしょう。何かの、誰かからの、あるいは目には見えない大きなはたらきかけという「目印」や「道標(みちしるべ)」に導かれて、今このように、尊い仏さまとのご縁(仏縁)に恵まれているのではないでしょうか。

-法話