煩悩の身を知らされ 念仏の法に遇う

「立派な生き方」への願い

「立派な生活とは、感謝と反省を忘れず日々努力し向上していくこと」と言われれば、多くの方が頷かれることでしょう。確かにその通りだと感じます。 また、「正しい生き方に努めましょう。そのためには感謝を忘れません。常にわが身を振り返り反省します。愚痴や不平を言いません。いつも喜びをもって暮らします。」という言葉も、まさにその通りだと共感いたします。

私たちの心を乱すもの

しかしながら、このような立派で正しい生活への願いや希望を、根底から揺るがし、乱してしまうものがございます。それが、ほかならぬこの私の身に満ちみちている「煩悩」であります。仏教では、代表的な煩悩として、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つを挙げられます。

順境での姿:貪欲の心

例えば、人生が自分の思うように順調に進んでいる時、私たちの心には「貪欲」という煩悩がむくむくと頭をもたげてまいります。そして、せっかく持っていた感謝や反省の心を見失わせてしまうのです。 貪欲とは、文字通り、貪る心、欲深い心でありますから、決して満足することを知りません。「もっと、もっと」と、その欲は際限なく膨らんでいくばかりです。名誉、地位、財産、あるいは命そのものについて考えてみても、「これで十分満足です。これ以上は何もいりません」と心から安んじることは、なかなか難しいのではないでしょうか。 このような時、周りには多くの人々が集まってきて、その人を褒めそやし、追従するかもしれません。そして、もし誰かが「思い上がってはいけませんよ」と忠告してくれたとしても、その言葉はなかなか耳に入らないものです。その結果、ますます自惚れの心を強くしてしまうこともあります。 仕事が上手くいき、多くの財産を築き、社会的に高い地位を得て、その名が世に知られるようになり、周りの人々から「先生」などと呼ばれるようになると、あたかも自分が何か特別な、偉い人間になったかのように思い上がってしまう心。それが貪欲のなせる業であります。

逆境での姿:瞋恚の心

反対に、人生が思うようにいかなくなる逆境に立たされた時、今度は「瞋恚」という煩悩が強く働きだし、私たちの平静な心を失わせてしまいます。 例えば、病を得たり、老いを感じたり、大切な家族を亡くしたり、あるいは仕事が上手くいかなくなったりすると、ほんの些細なことにも腹を立てやすくなります。また、他の方が順調に暮らしている様子を見ては、それを嫉(そね)み、妬(ねた)み、羨(うらや)むといった思いに心が縛られ、ますます心は暗く、ふさぎ込んでいってしまうのです。

根底にあるもの:愚痴(無明)の心

では、なぜ私たちはお互いに、順境にあっては有頂天になって酔いしれ、逆境にあっては失意に沈み込んで溺れてしまうのでしょうか。それは、私たち自身の心を支えている「ものさし」が、「愚痴」という煩悩に基づいているからに他なりません。 愚痴とは、どこまでも自分中心(あるいは自分たちの仲間中心)のものの見方や考え方であり、自分にとって都合がよくなれば舞い上がり、都合が悪くなれば落ち込んでいく、そのような心であります。この愚痴は、「無明(むみょう)」とも申します。煩悩によって真実を見る智慧の光がさえぎられ、心が暗闇に覆われている状態を指します。暗いので、どこへ向かえばよいのか分からず、迷いの世界から抜け出すことができないのであります。

念仏の法に遇うということ

お念仏の法、すなわち阿弥陀さまの本願のはたらきに出遇わせていただくということは、このような煩悩にまみれた愚かな我が身の姿を、まず喚びさましてくださるはたらきに気づかせていただくことです。そして、そのどうしようもない煩悩を抱えた身を、その身のままで、まるごと抱きとめ、受け入れてくださるはたらきによって、煩悩具足の身のまま救いとってくださるのであります。 この迷いの世界(生死の海)に沈みゆくしかないこの身を、そのまま真実の浄土へと渡し届けてくださる。そのような阿弥陀さまの真実の智慧と慈悲のはたらきに、深く思いをめぐらせ、そのお救いを素直に聞き、受け容れていく。それが、お念仏の法に遇うということなのでありました。

-法話

S