春になり花壇の花も色とりどりに綺麗に咲いています。
気づけばこんなにたくさんの花が咲いていました。少し前、この花壇はどんなだっただろうか?
毎日通る道ですが、あまり目をやっていなかったように思います。
気づかないけれども、ずっとその場に留まり根を張り、春の訪れを待っていたのでしょう。
とても綺麗な花であります。
近づいて見てみますと、私はふとこのようなことを思いました。
「どの花が一番綺麗だろうか?」
遠くから見ていたら気づきませんが、近づくにつれて一つ一つの花に違いがあることが分かります。
そしてさらに近づいて違いがはっきり分かると、その中で優劣をつけて「どれが一番綺麗か」を
決めている自分がいました。
さっきまで綺麗な花だと喜んでいた私が、次の瞬間には「よい花・悪い花」を選んでいたのです。
自分のふと沸き起こった思いに、恥ずかしくなるばかりです。
花に違いはあれど、花の中に「良いもの・悪いもの」などありましょうか。
一つ一つ一生懸命に咲き誇った花に対して、私は自己中心的な思いで優劣をつけていたのでした。
花に良し悪しなどないのに、自分の価値観でモノの命を計ってしまうのでした。恥ずかしいものです。
これは、花だけでなく人に対しても言えるかと思います。
善い人・悪い人という価値観を自らの価値観で判断し、その命の尊さまでも自己中心に判断していないでしょうか。
一人ひとりの尊い命と分かっていても、損得・役に立つ立たない・いい人悪い人で軽んじてしまうものなのです。
どれだけ表面で取り繕うっても、心の中ではどれだけ多くの人を傷つけ・消し去ろうとしたことでしょうか。
どの花も美しいのに、花までも比較し優劣をつけ、自分の都合で人を判断してしまうのです。
『阿弥陀経』には
「青い蓮は青く光り、黄色い蓮は黄色く光り、赤い蓮は赤く光り、白い蓮は白く光っている」
とあります。お浄土の蓮の花は、それぞれが個性を輝かせて美しく精一杯咲いていると、
それがお浄土の輝きであるとお経には説かれてあります。
この社会の中には、老若・貧富・高低・善悪など、世俗の不確かな分別を一切超えて、
阿弥陀様は分け隔てなく照らし、認め、いのちそのものが尊いのだと私の所ではたらいてくださっています。
色とりどりの花