英雄か、厄介者か -私の「善悪」と阿弥陀さまの真実-

イタリアのガイドさんの言葉(友人のお話)

先日、イタリアへ旅行された方から、興味深いお話を聞きました。その方は、ミラノ、ヴェネチア、ローマ等、イタリアの様々な都市を観光してこられたそうです。その旅行の中で、各地で案内をしてくれた現地のイタリア人ガイドさんの、ある言葉が非常に印象に残っている、と語っていました。それは、

「私、ナポレオンが大嫌い」

という、強い言葉だったそうです。

そのガイドさんは、観光名所を案内する道すがら、ところどころで「残念なことに、ナポレオンが…」という話をされたといいます。

例えば、「あそこに見える大きな大理石の像は、実はレプリカ(模造品)でしてね。本物は残念なことに、昔ナポレオンが本国に持って行ってしまいました」とか、「ここにはもともと大きな歴史的な門があったのですが、これも残念なことに、ナポレオンが壊してしまいました」といった具合です。

誰にとっての「英雄」か

そのご友人は、私たち多くの日本人がそうであるように、漠然と「ナポレオンは世界の英雄だ」と、勝手に思いこんでいたそうです。ですから、イタリアのガイドさんから、英雄どころか、まるで文化財泥棒か破壊者のように語られるナポレオン像に、最初は大変驚き、そして深く考えさせられた、と言っていました。

ナポレオンが英雄なのは、あくまでフランス国内での話であって、侵攻された隣接する国であるイタリアなどにとっては、ナポレオンは自国の文化や誇りを踏みにじった、なんとも「やっかいな人間」でしかなかったのです。言われてみればその通りなのですが、なかなかその立場に立ってみないと気がつかない視点です。

私たちの「ものさし」

私たちは、無意識のうちに、自分にとって都合の良いものを「善」とし、都合の悪いものを「悪」とみなしてしまう、そういう一面を持ってはいないでしょうか。たとえそれが、他の誰かにとっては大変都合が悪いものであったとしても、自分にとって都合の良いものであるならば、それを一方的に「善」であり「正しい」ことだと、みなしてしまいがちです。

善悪を知らぬ私たち(親鸞聖人のお言葉)

親鸞聖人は、そのような私たちのあり方を深く見つめられ、次のような趣旨のことを述べておられます。

「(この煩悩にまみれた私が、本当の意味での)善と悪の二つについて、その本質を全く知りえるはずがありません。それは、阿弥陀如来さまほどの完全な智慧をもってして、はじめて真実の善悪を知りえることが可能になるからです。 ですから、私たちのような煩悩をもった凡夫がすること、あるいは、火のついた家のように危険で変化のたえない無常の世界(火宅無常の世界)でおこる様々な出来事は、どこまでいっても全てが偽りのものであって、真実(まこと)のものなど一つもありません。 そのような中にあって、ただ、阿弥陀さまから賜るお念仏だけが、唯一の真実であります」と。

ただ、たまわるお念仏

私たちには、残念ながら、物事の真実の善悪を区別するような「智慧」はありません。したがいまして、自分の判断で「これが善い行いだ」と思って何かを行ったとしても、それが本当に仏さまの願われる善行(ぜんぎょう)となり、功徳(くどく)を積むことになるかどうかは、甚だ心もとないのです。

しかしながら、そのような私たちであっても、仏さまの教えに従い、阿弥陀さまがご用意くださった、この上ない功徳そのものである「南無阿弥陀仏」のお念仏を、ただ信じ、受け取らせていただくことはできるのです。

-法話