分からない事を分かる

阿弥陀様は、「十方衆生」を目当てとして、すべての人々を必ず救うという仏さまです。
十方とは、東西南北とその間(四維)と上下を表すので、それは何処にも逃げ場所がない、阿弥陀様のはたらきが
届かないところはどこにも無いという事を表します。
東に逃げても、西に逃げても、十方の人々を目当てとするのですから、どこでも私を目当てとしてくれる仏さまなのです。
その仏さまのお心をお聞かせいただくと、「必ず救う、我(仏)に任せよ」と、この私にすでに届いているのです。
「必ず救う。我に任せよ」と私にはたらいてくださるのは、なぜでしょうか?
普通、自分が困っていた時に友人から「大丈夫?助けようか?もし良かったら僕に任せてよ」
と、このように声を掛けてくれるとうれしいですね。私も、しんどい時に自分の頑張りを見ていていくれた人が、
「しんどくないか?無理するなよ」って声を掛けてくれたことがあります。あれは本当に嬉しいですね。
自分が頑張って自分が見えなくなっている時ほど、孤独で辛いことはありません。
今こうやって順風満帆な中で過ごしていると、忘れてしまうことがあります。
「必ず救う、我に任せよ」って言われても、私は「今は!!大丈夫だから、困っていないから任せる必要もない」と
思ったり、「そもそも任せる事がないからなぁ」なんて思ったり・・・昔はしていました。
そうじゃないですか?困っている時に、「任せて!」と声を掛けてもらえると嬉しいですが、
困ってもいない順調な時に「私に任せて!」って言われても、「いやいや、今、大丈夫だからっ」てなりません??
なぜ、阿弥陀様は「必ず救う、我に任せよ」と常にはたらいてくださるのか?
今の私は大丈夫なのに、どうして阿弥陀様は常にご一緒くださるのでしょうか??
それは、この私がいつ苦しみに煩わされ、悩みによって自分を見失うか分からない存在だからです。
もっというと、いつ命を終えるか分からない身だからこそ、阿弥陀様は常にはたらいてくださるのです。
今、外に一歩出たら車に轢かれて命終えるかもしれません、そんなの誰にも分かりません。
1ヶ月先に生きている保証など、どこにもないからこそ、阿弥陀様は常にご一緒くださるのです。
小学生の頃に、よく親から「忘れ物はない?」・・・「筆箱もった?」「水泳道具持った?」「習字道具は??」なんて、
いつも言われていたように思います。その度に、「分かってる、分かってる。大丈夫」なんて言っていました。
私が何度「大丈夫」と言っても、やはり「大丈夫か?」と聞いてくるのです。
ある時に習字の授業があったのですが、(小学校で習字の授業があったが懐かしいですね)
その日の朝にも、いつものように「忘れ物はない?」と言われたのですが、「はいはい大丈夫」って登校しました。
でも学校に行ってみて気づきます。「やばい!今日、習字じゃった」と。気づいても遅いですね。
授業は始まりますし、取りに帰る時間がありません。車が運転出来たら、間に合うかもしれませんが、
小学生の自分にそんな力はありません。「あー無理だぁ」と思っていると、先生から習字道具が届けられました。
聞いてみると、忘れていることに気づいた親が届けてくれたとの事でした。
「大丈夫、大丈夫」と自分では思っていても、親から見ると、「全然大丈夫じゃない」私がそこにいたのでしょう。
私が「大丈夫」と言っても、習字道具とか色んな忘れ物をすると知っていたからこそ、目が離せなかったのでしょう。
そのことに気づいていたから「大丈夫?大丈夫?」と何度もはたらきかけ、そして忘れていたものを親の方が、
私に届けてくれた(習字道具)のでした。私の側に何か見返りを求めることなく、ただ届けてくれたはたらきでした。
「今は!!大丈夫」と思っていても、いつ命終えるか分かりません。
いつ命終えるか分からないからこそ、いつも阿弥陀様は「必ず救うよ、我に任せよ」と
常にはたらいてくださっているのです。
今、今、今の連続がこの私の残された人生です。この今がいつか終わってしまいます。
次の瞬間、私にとって今がなくなる時、命終える時が、突然やってくるのです。いつか分からなくても必ずやってきます。
だから、いつ私が大丈夫じゃなくなっても、私を目当てとしてくれるのが阿弥陀様なのです。
「必ず救う、我に任せよ」という言葉は、今、順風満帆に過ごしているようでも、必ずその時はやってくる私に、
大丈夫じゃないという事を分からせてくれる。分からなかったことを分からせてくれる仏さまなのです。
だから、私は、その仏さまにただただ任せる人生を歩ませていただきます。

-法話