迎えに来てくれる事

「はじめてのお使い」の番組を見るのが好きです。けれども、いざ自分となると、はじめて一人でどこかに行くのって不安じゃないですか?人生もやがて一人で迎えなければいけません。そんな不安を少しでも和らげれたらと思います。

電車で大阪のおばあちゃんちに行くこと

昔、私がまだ子どもだった頃です。夏休みに大阪のおばあちゃんちに遊びに行くのが、とても楽しみでした。
父親に車で徳山駅まで送ってもらい、母親に手をひかれて新幹線に乗るのです。「こだま」、「ひかり」を乗り継いで新大阪を目指します。けれども、新幹線も大好きな私は、おとなしくできません。探検と称して、新幹線の先頭車両までいき、それから最後部の車両までしずかーっに散歩していた記憶があります。目に映るものがすべてが刺激的で、おとなしくはできなかったようです。
そうやっていつもは親に連れられて大阪に行っていたのですが、少し大きくなったら違います。多分、小学校5年生の時に、自分ひとりで徳山駅まで両親に見送ってもらい、そして新大阪でおばあちゃんに迎えに来てもらったかと思います。実際、新幹線に乗ったら2時間ほど乗りっぱなしなのですから、母親に見送られても、自宅まで帰り、祖母に電話をして「何両目の車両に乗ったよ」なんて伝えていたのかと、今になって想像されます。
でも、私にとって一人旅は、もう大世界に飛び出したも同然です。いつもは両親に見守られての新幹線も一人で荷物のありますから、席は離れられません。おとなしく外の風景を見ながら、期待と不安を胸に膨らませて、大冒険にでかけるようでした。

不安と心配

子どもながらに、「新神戸」の次は長い長いトンネルを抜けたらすぐに「新大阪」に到着することが分かっています。寝ちゃいけないと思えば思うほど、今まで興奮して一睡もしていないのですから、目的地が近づいてくると、だんだん眠たくなる、、、困ったものです。
なんとか新大阪まで眠気を堪えれば、おばあちゃんが待ってくれていると母から聞いています。降りることさえできれば、大丈夫だとわかっているのですが、不安と眠気とよく分からなくて心配になる。少し泣きたいけれど、もう小学5年生ですから、我慢をしていたわけです。
親に連れられて大阪に行っていたときには、無邪気に走り回って遊んでいましたが、自分ひとりだとそんな余裕もないのかと思ったことを覚えています。
そんな私を、大きくなったからと母は私に冒険をさせました。母親もあの手この手で、私が迷わないようにと準備をしてくれたことでしょう。祖母との連携がなければ言うまでもありません。なんとか新大阪駅に到着し、持っている荷物を全部かかえて、ホームに降りました。そこにはすぐに祖母が待ってくれていました。

自分の力じゃ無理なことがある

もし私が母や祖母の力を借りずに、自分で道を決めて進んで行ってたら間違いなく迷っていたことでしょう。例えば、新大阪駅の改札の多さは下松に住んでいたら分かりません。改札に行くまでに迷子になるでしょう。
そもそも迎えに来てくれる祖母がいるのに、自分の力だけで向かおうとするから迷ってしまうのです。わからない者が動いた所で、迎えに来た祖母からするとやっかいなものです。母の言われたように素直に待てばいいのです。祖母が間違いなく迎えに来てくれるから迎えてもらえばよいのです。

いつも私を迎えとってくれる阿弥陀様

阿弥陀様はこの私に届けられている救いもそうであります。ありのままの私でいいのです。自分でどうにかしてやろうと思うことが、手を煩わせてしまうのです。その迎えに来てくれる仏さまに、そのまま身を委ねるということが、浄土真宗の他力なのです。そのまま身を任せて、「ありがとうございます」それが、南無阿弥陀仏のお念仏です。どれだけ不安な一人旅でも、新大阪を降りた時、祖母を発見すると心からホッとします。(私が見つけるよりも、祖母の方が先に気づいて歩いてきていたような気もしますが)安心するって、そういうことなんだと思います。この命を終えるときに、それは往生浄土(お浄土に往き生まれる)ということです。それは、大切な方々に出会える、ホッと出来る瞬間なのかもしれませんね。

-法話