念仏は易行(いぎょう)と言われます。これは難行(なんぎょう)に対する言葉です。
難行とは1000日間も山の峰々を走り回る「千日回峰行」や昼夜念仏を称える「不断念仏行」など諸々の行を指し、
易行とは他力の念仏を指します。
念仏を称えて救われる、回数などを救いの条件とするならば、自力の念仏であり易行とは違います。
他力の念仏とは、阿弥陀如来さまに「救い」をお任せしてして称える念仏です。
念仏は簡単ですね。回数や時や場所を選ばず、阿弥陀様にお任せするだけなのですから。易行はいいですね。
けれども、親鸞聖人の「正信偈」(『教行信証』)の中に、
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
【書き下し】信楽を受持することは甚だもって難し、難の中の難これに過ぎたるはなし
【現代語訳】私の心で「阿弥陀様の救い」にお任せすることは難しい、とても難しいことで、これ以上のことは無い。
と、言えます。
他力は簡単、易行は簡単と言えますが、難しという理由はどうしてでしょうか。
難の中の難、これ以上に難しいことはないとおっしゃられた親鸞聖人のお心とは。
生活を振り返ってみて欲しいのですが、「念仏の数」と「愚痴の数」は、どちらが多いでしょうか?
私は、法事やお参りの回数があるので、愚痴よりも念仏の方が数は優っていますが、
お参りがない日で友達と遊んでいるときは、ふと愚痴などが出ている時があります。
僧侶の格好をしていても、運転しているときは愚痴がこぼれることがあります。
そんな時に、ふと念仏が出てくることなどありません。
易行として簡単なはずの念仏さえも、日頃から言えばとても難しいことであり、私にとっては
称えられることがどれほど素晴らしいことか、実感することがあります。
厳しい修行も素晴らしいのですが、私にとって仏となれる道のりはお念仏しかありません。
念仏よりも愚痴の方が出てくる私にとって、阿弥陀如来さまにお任せするしか手立てはありません。
この他力・易行の念仏こそが私の救われる唯一の方法なのです。
臨終の時など死を覚悟する時、いままでの行いを振り返り自らの善悪・行為を後生の報酬換算される方がいらっしゃいますが、
そんな事は考えない方がいいと思います。
易行の念仏一つ、阿弥陀さまにお任せするだけでいいのです。
時・場所・人柄・回数などを問いません。他力の念仏一つでいいのです。
「難の中の難、これ以上難しいことはない」という親鸞聖人のお心は、
行は難行に対して易行で簡単であるし、口に称える念仏と簡単であるが、
自らの行いを0パーセント、阿弥陀様にお任せする100パーセントとする事、
そのお心が起こることが難しいことであるとおっしゃられているのであります。
念仏は簡単か