「われを超えるはたらき」に生かされて

心に残る言葉

みなさんは何度も読み返したくなるような文章がありますか?二葉憲香(ふたば けんこう)元龍谷大学学長の文章です。ここに紹介させていただきます。

自然のいとなみ、与えられたいのち(二葉憲香先生の言葉より)

「新緑の中に立って、われわれは、自然の新鮮ないとなみに目をみはる。一本の木、一本の草、それぞれ違った新芽を出すが、それは、それぞれが考えてのことではない。緑の葉も、それに対応する光も与えられたものである。そのいとなみのなかに、われわれを振り返ってみると、同じように与えられた生命の中で、同じように真実をもとめる心を与えられていることを発見する。われを超えるはたらきの根拠に立って、自己のありようを考える。そこに宗教の門があり、親鸞探求の出発点がある」

阿弥陀さまに生かされている私

この二葉先生の言葉に触れるとき、私たちを包むすべてが、「われを超えるはたらき」である阿弥陀さまによって願われた命なのだと、改めて気づかされます。生きとし生けるものすべてが、阿弥陀さまのはたらきによって生かされ、そして救われていくのです。

私たちは、自分のことは自分で何でもできる、と思い上がってしまいがちです。しかし、考えてみれば、自分の髪の毛や指の爪などは、自分の意思に関係なく、いわば勝手に生えてきます。年をとって老いたくないと思っても、思い通りにはならず、老いていかねばなりません。

このように、自分の意思や力など及ばないところで、私たちは「われを超えるはたらき」である阿弥陀さまによって必ず救われていく、そういう存在なのです。

お念仏申し、おまかせする日々

この事実に目覚めさせていただくとき、私たちがすべきことは、ただ、南無阿弥陀仏とお念仏申し、阿弥陀さまの救いにすべてをおまかせして、与えられたこの一日一日を、精一杯生かさせていただくことではないでしょうか。

-法話