私は今しあわせです

火葬場で聞いた「しあわせ」

先日、あるご門徒さんのご葬儀があり、その後、火葬場までご一緒させていただくことになりました。その、静かだけれども様々な思いが交錯するであろうひとときに、喪主を務められた奥さまが、ふと、私にこうおっしゃったのです。

喪主の奥さんが突然「私は今しあわせです」という言葉を口にされたのです。

私はその言葉に少し驚きましたが、静かに耳を傾けていると、奥さまは亡くなられたご主人のことを、ゆっくりとお話しくださいました。

共に歩んだ人生

ご主人は若い頃から、家庭のことは奥さまに任せきりで、仕事一筋に打ち込んできた方だったそうです。お子さんがまだ小さかった頃には、学校の行事にもほとんど参加されなかったため、奥さまは「もう少し、家族のことも大事にしてくれたらいいのに」と、少し歯痒い気持ちになったことも、一度や二度ではなかったと仰っていました。

また、ご主人は海に関わるお仕事をされていたので、奥さまも一緒に船に乗って仕事を手伝ったこともあったそうです。しかし、海の上では普段にも増して厳しく、「あれを持ってこい!」「これをしろ!」と大きな声で命令されることもあり、カッと頭に血がのぼって、「もう、この人と離婚したい!」と本気で思ったこともあった、と正直な気持ちを話してくださいました。

最後に伝えられた「ありがとう」

そんなご主人が、七十歳を過ぎた頃から、入退院を繰り返すようになったそうです。そして、世の中がコロナ禍となり、病院も面会を厳しく制限したため、いったん入院してしまうと、ご家族でもなかなか面会も出来ない日々が続きました。

そんな入院生活の中、ある日突然、病院から「危険な状態です。今すぐ、来てください」と電話がかかってきたそうです。慌てて病院に駆けつけると、ご主人はもう目も開けず、呼びかけにも返事をしてくれない状態ではあったけれども、まだ確かに息のあるご主人に、最期に会うことができた、と。

そして、それから亡くなられるまでの一時間ほどの間、ずっとそばで手を握りながら、これまで共に生きてきたことへの感謝の気持ちを込めて、「ありがとう」と、しっかりとお礼を言うことができた、とのことでした。

奥さまは続けて、「主人が若い頃から、雨の日も風の日も、一生懸命働いてくれたからこそ、今の家族の生活がある。若い頃は不満に思うこともあったけれど、ようやくその事に気づいて、最後にきちんとお礼を言うことができました。だから、私は今、しあわせなんです」と、穏やかにお話しくださいました。

「煩悩のメガネ」をかけている私

この奥さまのお話をお聞きして、阿弥陀さまの教えに照らして、深く考えさせられることがありました。阿弥陀さまからご覧になれば、私たちはいつも「煩悩(ぼんのう)のメガネ」をかけて生きている、と言われます。煩悩とは、自分中心の欲望や怒り、愚痴、ねたみといった、私たちを迷わせる心の働きです。

本当は、私たちはたくさんのご縁に支えられ、有り難い世界に生かされているにも関わらず、この煩悩のメガネが邪魔をして、そのことになかなか気づくことができません。本当に大切なもの、有り難いことにはなかなか気づかないのに、「あれは好き、これは嫌い」「あれが足りない、これが不満だ」と、自分の煩悩に振り回されて、不平不満を言って生きているのが、私たち凡夫(ぼんぶ)の姿ではないでしょうか。

月の光のごとく照らす慈悲

しかし、親鸞聖人は、そのような私たちに対して、阿弥陀さまは決して見捨てることなく、その慈悲の光で照らし続けてくださっている、と教えてくださいました。

親鸞聖人は、私たち凡夫に向けられた阿弥陀さまのお心を、「しかし、そのような(煩悩に眼をおおわれ、真実に気づけない)あなたこそを、決して見捨てることなく、阿弥陀さまは、まるで闇夜を照らす月の光のように、いつでも、どこでも、あなたを照らし、はたらき続けてくださっていますよ」と、お示しくださっています。

月の光は、たとえ私たちがそれに気づかずに眠っていても、あるいは雲に隠れて見えない時でも、常に私たちの上を照らしてくれています。それと同じように、阿弥陀さまの慈悲の光は、私たちが煩悩のために気づかなくても、あるいは仏さまに背を向けているような時にさえ、常に私たちを照らし、見守り、お育てくださっているのです。

光り輝くお姿

ご夫婦の人生の一つ一つを細かく見ていけば、奥さまがおっしゃるように、色んな不平や不満が出てくるのかもしれません。けれど、最後に手を握って心からお礼を言えたこと、そのことを「しあわせだ」と感じられるお心になられた。そして、

「主人と一緒にいた時、私は、あの人の本当の良さの半分も分かっていませんでした」

と、静かに語ってくださるご門徒のお姿に、私は、まるで阿弥陀さまの光に照らされているかのような、静かな輝きを感じずにはいられませんでした。それは、私にとって大変尊いご縁でありました。

-法話