あるSNSの投稿より
先日、ソーシャルネットワーク(SNS)に書かれていた文章が心に残りました。少し長くなりますが、ご紹介させていただきます。
『会社での雑談での事・・。昔の男の子は皆、自分のナイフを持っていたな~って話になりました。ナイフで使って竹トンボや水鉄砲を作ったり、鉛筆を削ったり、悪戯する道具を作ったり…。 たまには失敗して手を切る事もありますがそうやって遊びながら、道具の使い方を覚えていった様に思います。しかし、今は子供にナイフを持たす人は減りましたね。ナイフは武器と言うイメージが強いです。 武器は人を傷つけます。危険な物は極力持たせたくないと言う親心もあるのでしょうね。 ナイフは刃物です。刃物の本質は切る事です。料理で使う包丁も、人をあやめる刀も、手術で使うメスも刃物であり、何かを切るという本質は変わりません。切る対象が変わるだけです。 何を切るか?は当人次第ですが、本当はソレを判断できる心を教えてあげる事が、大切な事の様な気がします。人の持つ凶器とは悪意に他なりません。 刃物が人を救う事もあれば、言葉で人を殺す事も出来る。全ての道具は使い方次第です。そして、何より知らなければならないのは、他ならない自分の「心の使い方」かも知れませんね。』
「自己主張」と「凡夫」という私
この投稿を読んで、深く考えさせられました。「全ての道具は使い方次第です」そして「何より知らなければならないのは、他ならない自分の『心の使い方』かも知れませんね」という言葉。まさにその通りだと頷かされます。
しかし、翻って私たちの日常生活をみてみると、常に自分の視点(視座)から世界を見ることに終始してはいないでしょうか。一人ひとりが、自分の思いや考え方、価値観に固くしがみつき(我執 - がしゅう)、無意識のうちにそれを相手にも押し付けようとしてしまいます。この「自己主張」がエスカレートすると、時には言葉や態度、あるいは物理的な暴力、時にはモノを使って、相手を傷つけてしまうことさえあります。
仏教では、このように「自己主張」、すなわち自分への執着(我執)に囚われた人間のありのままの姿を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。
お念仏の教えに出遇い、私たち人間の心の在りようや、その我欲(がよく)の根深さを見抜かれた親鸞聖人は、この「凡夫」の姿を次のように明らかにしてくださいました。『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という書物の中に、こう示されています。
「凡夫といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと…」
《現代語訳》 「「凡夫」 というのは、 わたしども(人間)の身には無明煩悩(真実に暗い迷いの心)が満ちみちており、 欲望も多く、 怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起ってきて、 まさに命が終ろうとするそのときまで、 その心が止まることもなく、 消えることもなく、 絶えることもないと…。」
阿弥陀さまの願いと出遇う
欲望も多く、怒りや腹立ち、そねみ、ねたみの心ばかりが絶え間なく起こり続け、まさに命が終わろうとするその瞬間まで、止まることも消えることも絶えることもない…。それが、仏さまの眼からご覧になった、この私の真実の姿なのです。そして、そのような私たちを、その尽きることのない苦しみから必ず救い取りたいと、深く願われた仏さまが、阿弥陀さまなのです。
阿弥陀さまのその広大な願いを聞かせていただく中に、私たちは初めて、自分自身の「凡夫」としての姿に気づかされる人生が開かれてきます。
「心の在りよう」と向き合う人生
先のSNSの投稿では、「心の使い方」を知ることが大切だと述べられていました。しかし、仏さまの教えに照らされる時、私たちが本当に知らなければならないのは、テクニックとしての「心の使い方」よりも、むしろ、どのような縁にあっても自分中心から離れられない、この私の「心の在りよう」そのものではないでしょうか。
阿弥陀さまの願いの中に、このどうしようもない「私」と向き合いながら生きていく人生は、もはや我執や我欲に振り回されるだけの、虚しい人生ではありません。
私の愚かさ、浅ましさをすべて見抜いた上で、それでもなお、この私を見捨てることなく願い続けてくださる阿弥陀さまがいてくださる。そのことに深く感謝(有難く思う)させていただく。自己中心的にしか生きられないこの私が、阿弥陀さまの利他の願いに出遇わせていただくことによって、不完全ではありながらも、その広大な願いに応えようとする生き方(報恩感謝の生き方)が、ここから始まっていくのです。
そのような阿弥陀さまの願いに出遇えたことへの純粋な喜び(歓喜 - かんぎ)と、だからこそ、その尊い願いに背くような形でしか、この私がその願いに出遇うことができなかったということへの、深い慚愧(ざんぎ - 恥じ入る心、申し訳なさ)の念。この二つを抱きしめながら、これからも、皆さまと共に、南無阿弥陀仏と、念仏の大道を歩ませていただきましょう。