佐賀県のお寺の御門徒さん
以前、ご法座に伺った際に、聞かせていただいた心に残るお話があります。
そのお寺には、熱心にいつもお参りをなさる、一人暮らしのおばあちゃんがおられたそうです。ごく近しいご家族は誰もいらっしゃらない、文字通りお一人での生活でした。
ある時、近所にお住まいで、特定の宗教を熱心に信仰されている方が、毎日、その宗教のお仲間を何人も連れてきては、このおばあちゃんの家を訪れるようになったといいます。そして、口々にこう言われるのです。
「一人暮らしで、こげん哀れな身にならんといかんというのも、あんたが間違うた宗教ば信仰しとるけんたい。そげん間違うた仏さまみたいなものば、家に置いとるけん、こういう事になるったい。はよ、私らの仲間に入らんか。そうしたら、話し相手にもなってやるし、身の周りの世話もしてやるけん」
このように、やや一方的に、おばあちゃんの信仰を否定し、自分たちの宗教への加入を強く勧められるのでした。
おばあちゃんは、ただ黙ってそれを聞いているばかりで、時には「ナンマンダブ、ナンマンダブ…」と、静かにお念仏がこぼれることもあったそうです。
しかし、毎日訪れては同じように勧誘しても、おばあちゃんが一向に宗旨を変える様子がないものですから、とうとう、その方々は業を煮やし、こう詰め寄るようになりました。
「こんだけ親切に言うてやってるとに、まだ分からんのか! そげん毎日、意味も分からずにお念仏ばっかり称えとって、何か一つでも『ご利益(りやく)』でもあるとや!?」
その時、おばあちゃんは、穏やかにこうお答えになったそうです。
「はいはい、ございますとも。皆さんが、こげん毎日、私のことを心配して、あれこれと親切におっしゃってくださいますけれども、おかげさまで、私はもう、どちらの教えが正しいのか、などと迷う必要がないんですねぇ。お念仏ひとつで、このままお浄土に往けることがはっきりしておりますから。これが、私にとって一番の『ご利益』ですよ」
この世の「ご利益」と阿弥陀さまの願い
このおばあちゃんの言葉は、私たちに大切なことを教えてくれます。世間のものの見方というのは、どうしても、「それが自分にとって役に立つのか、立たないのか」「損なのか、得なのか」というような、「有用性」や「損得勘定」で物事を判断しがちです。信仰や宗教に対しても、「何か現世的な願いを叶えてくれるのか」「具体的なご利益はあるのか」という視点で見てしまうことが少なくありません。
たとえ、私たちがひたすらお念仏を申していたとしても、そのお念仏を称えた功徳(くどく)によって何かを手に入れよう、何か願いを叶えてもらおう、とするならば、それは阿弥陀さまという仏さまを、自分の都合を叶えるための「請求先」としてしか見ていない、ということになってしまいます。
たまわる信心(即如前門主のお言葉)
浄土真宗本願寺派の即如(そくにょ)前ご門主(門主=宗派の代表者)は、以前、蓮如上人(れんにょしょうにん)の五百回遠忌法要の際の法話の中で、浄土真宗における「信心(しんじん)」について、非常に分かりやすくお示しくださいました。
即如前門主は、このようにお示しくださいました。
浄土真宗の信心というのは、私たちが努力して得るものではなく、阿弥陀如来から一方的に「たまわる信心」です。
それは、南無阿弥陀仏という仏さまの呼び声が、この私に至り届いてくださること、そのものを言うのです。
ですから、私たちが「苦しいから助けていただきたい」と阿弥陀さまにお願いすることによって成り立つ信心ではありません。
また、私たちがお念仏を称えた、その善行や功徳によって救われる、ということでもありません。
反対に、私が気づくずっと以前から、阿弥陀さまが既に、この私の喜びも悲しみも、そして抱えているすべての煩悩をも、すべて見抜いた上で、それでもなお「必ず救う」と、常にこの私を喚(よ)び続けていてくださる。その仏さまの呼び声を聞き、おまかせする心が「信心」なのです。
むなしくない人生を求めて
私たちは、生まれ難い人間(にんげん)として、この世に生を受けさせていただきました。しかし、その尊い人生を、ただ自分の欲望を満たすためだけに費やしてしまうならば、それは大変むなしいことではないでしょうか。
むなしく終わることのない人生とは、一体どのようなものか。阿弥陀さまの教え、お念仏の教えを、これからも共々に聞かせていただきましょう。