ある方のお母さまのお話
以前、ある方から、ご自身のお母さまを亡くされた時の、忘れられないお話を聞かせていただいたことがあります。
その方のお母さまは、今年(※執筆時点)1月、87歳のお誕生日の前日に、お浄土へ往生の素懐を遂げられたそうです。 お母さまは、長年ひどいリウマチを患っておられ、最近は軽い認知症の症状もあったとのこと。実に20年以上もの間、介護が必要なお身体で、ご自宅での在宅介護を受けながら、一日中ベッドの上で過ごしておられました。しかし、とても明るく、食べることが大好きなお母さまだったそうです。
ところが昨年の夏、脳幹梗塞を起こされたため、入院することになってしまいました。幸い症状は重度ではなかったものの、その後遺症からお食事がうまく摂れなくなってしまい、鼻の穴からチューブを胃まで挿入して栄養剤を注入する「経鼻経管栄養」をせざるを得なくなりました。
担当のお医者さまからは「もうご自宅での介護は難しいでしょう」と判断され、約3ヶ月の入院の後、医療型介護施設に入所されることになりました。しかし、折からの新型コロナウイルスの影響で、施設では面会が厳しく制限されており、入所されてからは、なかなかお顔を見ることもできなくなってしまったそうです。
その方は、「会えない状況になると、逆に、会いたくてたまらなくなるものですね」と仰っていました。「母がまだ自宅に居たとき、部屋のベッドで過ごしている母の側へ、なぜ、もっと頻繁に行ってやらなかったのだろうか」と、後悔の思いが込み上げてきた、とも。
その思いを施設の方に伝えると、お医者さまの特別な判断で、短時間ではありましたが、特別に面会することが許されたそうです。
久しぶりに会うお母さまは、以前よりもずっとやつれたお姿で、認知症も進んでおられるように見えた、と。ベッドで上半身を起こした状態のお母さまの耳元で、その方が大きな声で「おかあさーん」と呼びかけると、お母さまは目を大きく見開いて、嬉しそうに息子(その方)の顔を見つめ、そして、か細い声でその方の名前を呼び、「〇〇ちゃんね」と言って、右手でその方の手を強く握ってこられたそうです。
そして、動かすのもやっとであろう身体であるにも関わらず、もう片方の手もそっと重ねて、両手でその方の手を包み込むように握り、「(手が)冷たいね」と言って、自分の手の温もりで温めようと、何度もさすってくれた、と。
案じてやまない心
その方は、その時のことを振り返り、「辛い身体であるにも関わらず、なお、この私のことを案じてくれる存在。それが、私にとっての母でした」と、静かに語っておられました。
親鸞聖人は、私たちに向けられる阿弥陀さまのお心を、「阿弥陀さまだから、当然のように私を案じてくださる、ということではない。むしろ、この私のことを、一時も忘れず、案じてやまない、その温かいはたらきそのものを、私たちは阿弥陀さまと申しあげるのだ」と、讃えておられます。そのお心を、『浄土和讃』の中に、阿弥陀さまの「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉で、次のように示してくださいました。
「十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる」
《現代語訳》 十方(あらゆる方向)の数限りない世界(微塵世界)にいる、念仏の衆生(私たち)をご覧になり、その者たちを(慈悲の光の中に)摂(おさ)め取って、決して捨てることがない。それゆえに、その仏さまを阿弥陀如来と申し上げるのである。
得難い身、聞き難い法
私が、この世に、この「私」として、特定の母から生まれてくる確率。それは、医学的に単純に計算しただけでも、実に1400兆分の1という、天文学的な確率なのだそうです。 また、私の母も、そのようにして祖母から生まれているのですから、考えてみれば、本当に途方もない確率を経て、私は母と、そして他の家族とも、親子・家族として出会うことができたのです。
仏教では、仏(ほとけ)と法(のり:教え)と僧(そう:教えを伝える人々や集い)という三つの宝(三宝 - さんぼう)を心から信じ、尊重することを「三帰依(さんきえ)」といいます。「帰依(きえ)」とは、単に信じるだけでなく、その教えを拠り所として生きていく、という意味です。 その「三帰依」を誓う儀式の際に唱えられるご文は、次のような言葉から始まります。
「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。 仏法(ぶっぽう)聞き難し、いますでに聞く。」
(意訳:人間として生まれることは、得難いことである。しかし、私は今すでに人間として生まれている。仏の教えを聞くことは、得難いことである。しかし、私は今すでにその教えを聞くことができている。)
この広い世界の中で、私が「私」として、人間として生まれてくることは、誠に得難い、たぐいまれなことであるのに、私は現に、私としていまここに存在している。その私が、さらに仏さまの教え(仏法)を聞くということは、人間として生まれることにも増して、一層得難いことであるのに、私は今すでに、仏の教えを聞くことができるご縁に恵まれている。その確率は、それこそ、1400兆分の1どころの話ではない、計り知れないほどの尊いご縁なのです。
このご縁をかみしめて
このように、到底、有り得なかったはずの仏法聴聞(お聴聞)のご縁に、私たちは今、恵まれています。この尊いご縁を大切にし、共に何度もお聴聞を重ねて、今すでにこの私に出遇い、私を案じてやまない仏さま(阿弥陀さま)の温かい願いを、深く、繰り返し、かみしめさせて頂きましょう。