世界が輝いて見えなくても

ある詩人のまなざし(高見順「電車の窓の外は」より)

この詩は小説家、詩人として著名な高見順さん(1907~1965)が癌を患い、ご自身の死期がまもなくだろうことを自覚されていた時に書かれた詩、「電車の窓の外は」の一部です。

電車の窓の外は、光にみち、喜びにみち、いきいきといきづいている。 この世ともうお別れかと思うと、 見なれた景色が、急に新鮮に見えてきた。 この世が、人間も自然も、幸福にみちみちている。 だのに私は死なねばならぬ、だのにこの世は実に幸せそうだ。 それが私の心を悲しませないで、 かえって私の悲しみを慰めてくれる。 私の胸に感動があふれ、胸がつまって涙が出そうになる。

高見順さんが、ご自身の「死」という大きな問題に直面されたとき、それまで当たり前に見ていたはずの世界が、まるで違って、光り輝いて見えた。そして、死にゆく自分自身に対して、その世界がどこまでも優しく感じられた、と受け取ることができます。高見さんがどのような信仰を持ち、どのような人生を送ってこられたのか、私には詳しくは分かりません。しかし、人生の最期に臨んで、今まで何気なく見過ごしていた普段の景色が、このように新鮮で、幸福に満ちたものとして目に映ったというのは、ご本人にとって、とてつもない驚きを伴う体験だったのではないかと想像いたします。

私には見えない景色

高見順さんが、この詩を大きな驚きの中で書かれたことは想像できます。しかし、では、この詩を読んだ私自身の景色の見え方が、何か劇的に変ったかとかといえば、残念ながら、そういうことはありません。読めば読むほど、高見さんのように世界を瑞々しく感じられない、そのようには到底思えない、頑なな私の心が浮かび上がってくるばかりです。

この詩を読むたびに思い知らされるのは、いつの間にか私にとって、生きていること、この世界が存在していることが「当たり前」になってしまい、世界が素晴らしいものだ、有り難いものだ、と素直に思えなくなっている、凝り固まった自分の姿なのです。

阿弥陀さまが期待されること?

では、私たちが普段お聴聞(ちょうもん)させていただいている阿弥陀さまのお心は、私自身の世界の見え方が、高見さんのように劇的に変化すること、あるいは、私が何か特別な心境になることを期待しておられるのでしょうか。

決してそうではない、と教えられます。 むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろかさ(愚痴)という、決してなくすことのできない煩悩(ぼんのう)に、骨の髄までどっぷりと浸かりきり、どこまでも自分中心にしか物事を見ることのできない、この私。たとえ、この世界が光に満ち、どこまでも優しいものだとは見えなくても、阿弥陀さまは、まさしく「そのような私であるからこそ」、決して見捨てることはできないと、広大なお慈悲の心から御本願(ごほんがん)をたてられ、常にこの私を照らし、何があろうと決して見捨てはしないと、はたらき続けてくださる仏さまです。

煩悩まみれの私と「南無阿弥陀仏」

阿弥陀さまの真実の光に照らされて見えてくる私の姿は、どこまでいっても煩悩まみれの、褒められたものではありません。しかし、そんな私の姿をすべてお見通しの上で、それでもなお「決して見捨てない」とはたらき続けてくださる阿弥陀さまのお心が、「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、今、この私に届いてくださっています。

私たちは、この思い通りにならない現実世界(娑婆)を、特別な人間になることによってではなく、煩悩を抱えたこの身のまま、ただ、阿弥陀さまの「見捨てない」というおはたらき、「南無阿弥陀仏」と共に、力強く生き抜いていく。ただ、それだけなのです。

-法話