「家族だけでも良いですか?」
ここ数年、コロナ禍の影響もあり、ご法事のお約束をいただく際に、施主さまから「今回のご法事は、本当に内々の者だけで、家族しかおりませんが、それでも構いませんでしょうか?」とお尋ねされることが、時折あります。
ある時、お電話で同様のことを尋ねられましたので、私が「どうして、そのようなことをご心配なさるのですか?」とお聞きしました。すると、お電話口の向こうで、少し申し訳なさそうに、こうお答えになりました。
「いえね、やっぱりご法事は、少ないよりは多い方が良いのだろうと思うのですが、子ども達が皆、遠方に住んでおりまして…。まだコロナも心配だということで、今回は呼べないんです」
私は、「人数が多いか少ないかは、まったく関係ありませんよ。もちろん、仏さまとのご縁に遇われる方が、お一人でも多い方が望ましいことではありますが、少ないからと言って、何も心配される必要はありません。そのあたりの詳しいことは、またご法事の当日にお話しさせていただきますね」とお伝えしました。
人数が多い方が故人は喜ぶ?
そしてご法事の当日、お宅に伺い、お仏壇の前でお衣に着替えさせていただき、皆さまとご一緒にお経さまを拝読いたしました。その後、いつものように少しばかり、仏さまのお話をさせていただく時間をいただきました。
その話の冒頭で、私はあえて皆さまに、「そもそも、どうして以前は、大勢で集まってご法事をお勤めしていたのでしょうか?」と問いかけてみました。すると、すかさず、その場で一番年長者とお見受けする方が、こう言われました。
「そりゃあ、人数が多い方が、あの世に行った人が喜ぶからでしょう?」
私がさらに、「それでは、もし人数が少なかったら、故人は悲しまれるのでしょうか?」とお聞きすると、同じ方が少し考えてから、こう答えられました。
「うーん、まあ、やっぱり多い方が、お経の声にも迫力があるし、やった方としても、やりがいがあるような気がするからねぇ」
さて、この法話をお読みの皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか。
故人(ほとけ)さまが私を呼んでくださる
私たちは、先に阿弥陀さまのお浄土に往き生まれて、仏さまとなられた故人に対して、何かをしてあげられるような力を、果たして持ち合わせているのでしょうか。
浄土真宗の教えでは、実は「逆」なのだ、と味わいます。つまり、私たちが故人のために何かをする、ということではなく、先に亡くなられて仏さまとなられた、その方が、今度は、この迷いの世界に生きる「私」のことを心配し、案じて、「どうか、あなたも仏さまの教えを聞いて、私と同じようにお浄土に生まれてきておくれよ」と、私たちを仏さまとのご縁に、招き、呼んでくださっている。それがご法事という場なのだ、といただくのです。
ご法事というお聴聞のご縁
それではなぜ、私は仏さまとなった故人から、心配されなくてはいけないのでしょうか。それは、たとえこの世の法律や道徳に照らして、特に大きな問題がないような生き方をしていたとしても、仏さまの智慧の眼から見た私の姿というものは、決して手放しで褒められるようなものではないからです。
それどころか、時には仏さまの願いとは真逆の方向を向き、いつまでたっても自分自身の都合や損得ばかりを考えてしまう(自己中心)。思い通りにならないことがあれば腹を立て(いかり)、周りのことや自分自身のことを分かっているつもりになりながら、実は何も分かっていない(おろかさ)。そのような、仏さまとは全く反対のあり方をしてしまうのが、この「私」という存在だからです。
ご法事とは、先にお浄土に還(かえ)られた故人を縁(えにし)として、この私が、仏さまのみ教えを聴かせていただく(お聴聞)大切な機会です。そして、そのみ教えを通して、仏さまのお心と比べて、いかに自分がどうしようもない存在であるかを知らされる。しかし、そんな私だからこそ、阿弥陀さまは「絶対に救わずにはおかない」と立ち上がり、その救いが、今、この私のところにまで至り届いてくださっていたのだ、という仏さまのご恩(ごおん)に、心から頷き、よろこばせていただく場所。それが、本来のご法事の意義でありました。
人数が多いか少ないか、立派であるかどうか、ということでは決してありません。故人を偲びつつ、阿弥陀さまのお慈悲を聞かせていただく、そのことが何より大切なのです。