報いるべきご恩を知る

身を粉にしても報ずべし(正像末和讃より)

親鸞聖人は、その晩年のお作である『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』の中に、私たちがお念仏の教えに出遇(あ)わせていただいたことへの、深い感謝と報恩(ほうおん)の思いを、次のように示しておられます。

如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳(おんどく)は
身(み)を粉(こ)にしても報(ほう)ずべし
師主知識(ししゅちしき)の恩徳も
骨(ほね)をくだきても謝(しゃ)すべし

(意訳:阿弥陀如来さまから頂戴した大いなる慈悲のご恩は、この身を粉にしてでも報いなければならない。また、私を仏法に導いてくださった師匠や善き友(知識)のご恩も、骨を砕くほどの思いで感謝申し上げるべきである。)

私たちを支える四つの恩

仏教では、私たちがこの世に生かされている上で、忘れてはならない大切な「四つの恩(しおん)」ということが説かれています。

一つは「父母(ぶも)の恩」
二つは「衆生(しゅじょう:生きとし生けるもの、社会)の恩」
三つは「国土(こくど:国や地域、自然環境)の恩」
四つは「仏さま(三宝:仏・法・僧)の恩」 です。

なかでも、この私に「いのち」を授け、今日まで育ててくださった「父母の恩」は、私たちにとって最も身近で、そして大切なものとして、第一番目に挙げられています。

「恩」という字をよく見てみますと、「心(こころ)」という字の上に、「因(いん:たね、原因)」という字が乗せられています。これは、私たちの心が豊かに育っていくための、その根本的な原因(たね)が、他者から受ける様々な「恩」にある、ということを示しているのかもしれません。その深いこころは、これまでの人生において、この私をここまで大きく育んできてくださった、量り知れない多くの原因(ご恩)に対して、「お互いに、その有り難さに気づき、感謝して生きてゆきましょう」という、私たちへの呼びかけでありましょう。

いちばん身近な「父母の恩」

しかし、「父母の恩」というものは、あまりにも身近にありすぎるせいか、かえって私たちが一番気付き難い、忘れがちなご恩ではないでしょうか。

仏教では、私たちの「誕生日」のことを、母親が大変な思いをして私を産んでくださった日として捉え、「母難日(ぼなんび)」と申します。ですから、この日には単に、“自分の誕生を祝う”というだけではなく、「お母さん、私をこの世に産み、そして今日まで育ててくださって、本当にありがとう」と、心からの感謝をする日でもあるのです。

誕生日「母難日」に思う

何万年、何億年という、想像もつかないほどの永い「いのち」の連続の中で、数えきれないほどのご先祖さま方の「いのち」が繋がって、ようやくこの「私」という一つのいのちが、今、ここに誕生させていただきました。今こうして生かされていることの不思議さ、有り難さに気づかされ、そして、子が親に、また親となった子がその両親にと、絶えることなく「ありがとう」という感謝の心を、次の世代へと大切に継承(けいしょう)してゆかなければなりません。

親も子も、阿弥陀さまの子

そして、浄土真宗の教えは、その親子の関係をも、まるごと大きな慈悲の心で包み込み、まるで父のように、母のように、私たち一人ひとりを「我が子」のごとく案じ、願い続けてくださる阿弥陀さまがいらっしゃる、と教えてくださいます。私たちは皆、親も子も、共に阿弥陀さまから願われている、仏さまの子どもでありました。

どこかで、このような言葉を聞いたことがあります。

「子の罪(つみ)を、親こそ憎(にく)めども、捨てぬは親の情(なさ)けなるかな」

たとえ子どもが過ちを犯し、その罪を心から憎いと思ったとしても、それでも決して我が子を見捨てることができないのが、親の情けというものでしょう。

ご恩に報いるお念仏

阿弥陀さまという真実の親から見れば、私たちは皆、仏の子でありながら、なかなか仏の子らしく生きることのできない、煩悩(ぼんのう)にまみれた、申し訳ない「我がいのち」であります。

しかし、そのような私たちであるからこそ、阿弥陀さまは深い願いをかけてくださっているのです。その、父母の恩、そして、すべてを包む仏さまの恩に報いる道として、例えばお誕生日などには、親子揃って、あるいは家族揃って、お仏壇の前に座り、「阿弥陀さま、ありがとうございます」と、感謝のお念仏を申させていただく。そのような生活を大切にしていきたいものです。

-法話