これまでの八句で、法蔵菩薩が一切衆生(いっさいしゅじょう)救済のための「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」を建立・超発されたことが示されました。本記事では、続く第九句「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」と第十句「重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)」に焦点を当て解説します。特に、阿弥陀仏が私たち凡夫を救うために費やされた「五劫思惟(ごこうしゆい)」という時間の重みと、その救済の要となる「名号」(南無阿弥陀仏)の普遍性について詳しく見ていきます。
2. 第九句「五劫思惟之摂受」の解説
書き下し文と現代語訳
- 書き下し文: 「五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。」
- 現代語訳例: 「(法蔵菩薩は)五劫という非常に長い時間をかけて(四十八願の内容を)深く考え抜かれ、その中から(衆生救済の要となる本願を)選び取り、自身のものとして固く受け止められました。」
この一句は、法蔵菩薩が四十八願を建立された後、さらにその内容を深め、確かなものとしていく過程を示しています。
重要語句の解説
五劫(ごこう)とは:計り知れない時間の深さ
「劫(こう)」とは、古代インドにおける時間の単位で、極めて長い、想像を絶するような時間を表します。「五劫」はその五倍であり、具体的な年数で測ることは困難ですが、法蔵菩薩が衆生救済の願いを成就するために、いかに長く、深く思索を重ねられたかを示す言葉です 。
この「五劫」という時間の長さは、単に年月が経過したということだけではありません。それは、阿弥陀仏の本願が、私たち凡夫、つまり煩悩(ぼんのう)にまみれ、自らの力では悟りを開くことができない者たちのために、どれほど真剣に、慎重に、そして深く考え抜かれたものであるかを物語っています 。私たちの抱える苦悩の根深さ、迷いの深さを知り尽くした上で、それらを確実に解決し、救済するための道を完成させるには、これほどの時間と労力が必要だったのです。それは、私たち凡夫の計らいを超えた、仏の側の途方もないご苦労を象徴しています。
思惟(しゆい)とは:凡夫救済のための熟慮
「思惟」も、単に物事を考えるという意味ではありません。ここでは、建立した四十八の願い、特にすべての衆生、とりわけ救われがたい凡夫を、どのようにすれば確実に救うことができるのか、その具体的な方法(本願の内容とその成就の方法)を、五劫という長い時間をかけて深く、繰り返し考え抜かれたことを意味します 。
この思惟は、阿弥陀仏の根本的な性質である「大慈悲(だいじひ)」に基づいています 。仏の心は慈悲そのものである(仏心とは大慈悲これなり)と『観無量寿経』に説かれるように 、法蔵菩薩の思惟は、苦しむ衆生への深い憐れみと、彼らに真実の安楽(あんらく)を与えたいという願いから発せられた熟慮でした 。四十八願の中から、あらゆる衆生、特に罪深く、能力の劣る凡夫にとって最も有効で、実行可能な救済の道を選び出すための、慈悲に貫かれた思索だったのです 。
摂受(しょうじゅ)とは:選び取り、受け止める決意
「摂受」とは、五劫の思惟を経て、数ある願いの中から、衆生救済の根本となる最も重要な願い、すなわち第十八願「念仏往生の願」(阿弥陀仏を信じ、念仏(南無阿弥陀仏)を称える者は必ず浄土に往生させるという願い)を選び取ることを意味します 。
しかし、「摂受」は単なる選択にとどまりません。それは、選び取った本願を、法蔵菩薩が自身の本質的な願いとして深く受け止め、その成就に自身のすべてをかけるという、固い決意表明でもあります 。この「摂受」によって、本願は単なる意図から、阿弥陀仏という仏の存在そのものを貫く力へと転化したのです。この法蔵菩薩による本願の「摂受」は、後に阿弥陀仏となられてから、その光明によって念仏の衆生を決して見捨てずに摂め取る「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の働きとも言えるでしょう。法蔵菩薩が本願を深く受け止められたからこそ、阿弥陀仏は私たちを名号(みょうごう)によって摂め取ることができるのです。
3. 第十句「重誓名声聞十方」の解説
書き下し文と現代語訳
- 書き下し文: 「重(かさ)ねて誓(ちか)うらくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞(きこ)えんと。」
- 現代語訳例: 「(選び取った本願の要である)名号(みょうごう)が、あらゆる世界の隅々(すみずみ)まで聞こえ渡るようにと、重ねて誓われました。
この一句は、五劫思惟と摂受によって選び抜かれた本願の核心が、確実に十方、つまり全世界に行き渡ることを誓い示しています。
重要語句の解説
重誓(じゅうせい)とは:本願成就への重ねての誓い
「重誓」とは、文字通り「重ねて誓う」ことです。五劫という計り知れない思惟と、本願の摂受という決断を経て、その選び取った願い(特に第十八願)とその成就の方法(名号)が、絶対に間違いなく衆生を救う力を持つことを、さらに確固たるものとして誓われたことを意味します 。
名声(みょうしょう)とは:阿弥陀仏の名号とその響き
ここでいう「名声」は、単なる世間的な評判や名誉のことではありません。これは、阿弥陀仏の本願とそのすべての功徳(衆生を救う力)が完全に込められた「南無阿弥陀仏」という「名号(みょうごう)」そのものを指しています 。
したがって、「名声」とは、阿弥陀仏が有名になることではなく、救済の主体である「南無阿弥陀仏」という名号そのものが、衆生に届き、その救いの働きを発揮することを意味します。この名号を聞き、疑いなく信じ受け入れることが重要になるのです 。
聞十方(もんじっぽう)とは:すべての世界に届く願い
「十方」とは、東西南北とその中間(四維(しゆい))、そして上下を合わせた全方向、すなわち全宇宙、あらゆる世界を意味します。「聞十方」とは、阿弥陀仏の名号が、特定の地域や時代、特定の能力を持つ人々に限定されることなく、時間と空間を超えて、すべての衆生のもとに届き、聞こえるようになることを願う誓いです 。
これは、阿弥陀仏の救済が、誰一人として漏らさない、完全に普遍的なものであることを示しています。阿弥陀仏の大慈悲は、縁(えん)のあるなしに関わらず、すべての生きとし生けるものに向けられているのです 。
この「名声聞十方」の誓いは、特に阿弥陀仏の四十八願の中の第十七願「諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願」と深く結びついています 。第十七願は、阿弥陀仏が仏になったならば、十方世界の数限りない仏がたが、皆その名号(南無阿弥陀仏)を称え、その徳を賛嘆するようにするという誓いです。諸仏が名号を称賛することで、その「名声」が「十方」に「聞こえ」、あらゆる衆生が阿弥陀仏の救いを知る機会を得ることができるのです。名号が救いの鍵である以上、その名号が普遍的に知られること(聞十方)は、普遍的な救済を実現するための不可欠な要素なのです。
4. 二句の関係性と背景:選び取られた本願と名号の救い
五劫思惟による本願の選択と摂受
法蔵菩薩は、師である世自在王仏に導かれ、二百十億ともいわれる無数の諸仏の浄土とその成り立ち、そこに住む人々の様子をつぶさに「覩見(とけん)」されました 。それは単なる見学ではなく、それぞれの浄土が持つ救済の力とその限界、特に自らの力では到底悟りを得られない凡夫をいかにして救うかという視点からの、徹底的な比較検討でした 。
その結果、既存の浄土のあり方ではすべての人々を救いきれないことを深く理解され、「無上殊勝(むじょうしゅしょう)」「希有(けう)」の四十八願を建立されました。そして、さらに五劫という計り知れない時間をかけて「思惟」を重ね、その四十八願の中から、あらゆる衆生、特に罪深く煩悩に沈む凡夫を確実に救済するための方法として、第十八願「念仏往生の願」を選び取り、自身の誓願とされたのです 。
この「覩見」から「建立・超発」、そして「思惟」「摂受」へと至るプロセスは、阿弥陀仏の深い慈悲が、私たち凡夫の現実(自力修行の困難さ、煩悩の根深さ)に完全に対応する形で具体化された結果なのです。特に、お釈迦様の入滅(にゅうめつ)後、正しい教えが衰え、自力での悟りが困難になるとされる末法(まっぽう)の時代に生きる私たちにとって、この念仏往生の道は自分が救われ行く唯一の方法とも言えます 。
重誓と名号の普及(第十七願との関連)
五劫思惟と摂受によって選び取られた本願は、「南無阿弥陀仏」という名号に込められます。第十句「重誓名声聞十方」は、この救いの要である名号が、全宇宙(十方)の隅々にまで届き、すべての衆生に聞こえる(聞)ようにと、法蔵菩薩が重ねて(重)誓われた(誓)ことを示しています 。
つまり、第十八願が救済の方法そのものであるとすれば、第十七願はその名号を全宇宙に確実に届けるための誓いであり、伝達手段なのです。「重誓名声聞十方」の一句は、この二つの願の連動性と、それによって確立された名号による普遍的救済への阿弥陀仏の確固たる意志を示していると言えます。
凡夫のための救済計画
「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」の二句が示す一連のプロセス、すなわち、無数の浄土の観察(覩見)、優れた誓願の建立(建立・超発)、計り知れない時間の熟慮(五劫思惟)、核心となる本願の選択と受容(摂受)、そして名号の普遍的流布(るふ)への誓い(重誓名声聞十方)は、すべて私たち凡夫のために、阿弥陀仏が成し遂げてくださったことです。
自らの力(自力)では煩悩を断ち切ることも、悟りを得ることもできない私たち のために、阿弥陀仏はその広大な慈悲(大慈悲心)をもって 、誰にでも行(ぎょう)じやすく、しかも確実に救われる道(易行道(いぎょうどう) )を用意してくださいました。それが「南無阿弥陀仏」の名号であり、それを聞き受けることが浄土真宗のご信心なのです。
この五劫思惟から重誓に至る阿弥陀仏の側の膨大なご苦労と、それに対して私たちが求められる応答(ただ信じ、念仏すること)の容易さとの対比は、浄土真宗の「他力」の教えの本質を明確に示しています。救いのための準備、努力、完成はすべて阿弥陀仏が成し遂げてくださっており、私たちはその完成された救いを、ただそのまま受け取らせていただくだけでよいのです。
5. まとめ:正信偈に聞く阿弥陀仏の願い
正信偈の第九句「五劫思惟之摂受」と第十句「重誓名声聞十方」は、阿弥陀仏となられる前の法蔵菩薩が、私たち凡夫を救うために、いかに深く、長く、そして真剣に心を砕かれたかを示しています。
まず、無数の仏がたの浄土を「覩見」し、その上で「無上殊勝」「希有」の四十八願を「建立・超発」されました。しかし、それで終わりではありませんでした。その誓願をいかにして確実に成就させ、すべての衆生、特に自力ではどうにもならない私たち凡夫を救うことができるのか、「五劫」という想像を絶する時間をかけて「思惟」し、その核心となる第十八願「念仏往生の願」を「摂受」されました。そして、その本願の要であり、救済の力そのものである「名号」(南無阿弥陀仏)の「名声」が、全宇宙「十方」にあまねく「聞」こえ渡るようにと、「重誓」されたのです。
この一連の過程は、阿弥陀仏の私たちに対する広大無辺な慈悲と智慧の現れに他なりません。私たちが日々称えさせていただく「南無阿弥陀仏」のお念仏は、決して呪文のように唱えたから救われるというものではなく、阿弥陀仏の想像を絶するご苦労と、私たちを必ず救わずにはおかないという深い願いが成就した、尊いはたらきなのです 。
正信偈を拝読し、その一句一句に込められた意味を学び、味わうことを通して、私たちは阿弥陀仏の大いなる慈悲に触れることができます。そして、その慈悲に包まれていることを知り、感謝の念仏を申す中に、困難な時代を生き抜く智慧をいただくことができるのです。この二句の解説が、皆様の正信偈への理解を深め、日々の聞法とお念仏の生活の一助となれば幸いです。