あてにならないものを頼る私たち
「ああなったら良いのに、こうなったら良いのに」と、人はいつも自分自身を中心に物事を願い、考えてしまいます。
今、私たちが住んでいるこの世界。私たちは様々な物事を願い、期待し、それを「あて」にして日々を暮らしていますが、よくよく見つめてみれば、その中に何一つとして、永遠に変わらない確かな物事は存在しません。たとえ一時的に自分の思い通りになったとしても、ご縁が尽きれば、それは必ず私の手から離れていきます。
それは、私たちの周りの物事ばかりではありません。何よりも、この「私」自身の命そのものが、決して「あて」にはならないのです。いつ終わりを迎えるか分からない、儚(はかな)い命であります。言い換えますと、この世は、どこまでいっても「すべては私の思い通りにはならない世界」なのであります。
決して離れない ただ一つのまこと
しかし、その、すべてが移ろい変わりゆく、あてにならない世界の中で、ただ唯一つ、決してこの私の命から離れることのない、確かな真実(まこと)があります。それは、私たちの命の中に、すでに宿ってくださっている「南無阿弥陀仏」であり、阿弥陀如来さまそのものであります。
阿弥陀如来さまが決してこの私からお離れにならないということは、この儚い命が終わる時には、必ず阿弥陀さまのお浄土に仏として迎え取り、生まれさせてくださる、というお約束が定まっているということであります。
「死んだらおしまい」という生き方
私の友人が、たまにこんなことを言います。 「人間、死んだら全部おしまいなんだからさ。生きているうちに、せいぜい楽しく生きなくては損だよ」
確かに、外見だけを見れば、刹那的な楽しみを追い求めて、生き生きとしているように見えるかもしれません。しかし、その心の奥底では、「人間死んだらおしまい」という虚(むな)しさや、言いようのない寂しさが、常に離れずにいるのではないでしょうか。「死んだら終わり」という思いで人生を過ごす者は、知らず知らずのうちに、本当の安心とは逆方向の、どこか後ろ向きの人生を歩むことになってしまうのかもしれません。
風の中の灯火(ともしび)、尽きないいのち
私たちの命の儚きことは、例えば「風のなかの灯火の如(ごと)し」とも譬えられます。風が吹けば、いつ消えるかもしれない、か弱い灯火。確かに、私たちの体の機能は、いつ病気や事故などで停止するかも分かりません。
しかし、仏さまの教えによれば、この儚い私のいのちが、阿弥陀さまの救いのはたらきによって、無量寿(むりょうじゅ)、すなわち限りの無い命である仏さまとして、お浄土に往き生まれる、「往生」させていただくのです。
その、私を仏にするというすべての救いのご準備は、すでに阿弥陀さまの方で完成されており(仕上がっており)、今、この私の命の上に、常に「南無阿弥陀仏」としてはたらき続けてくださっています。
「弥陀の浄土にいったと答えよ」(六連島のお軽さん)
山口県下関市の沖合にある六連島(むつれしま)に、江戸時代、お軽(かる)さんという、大変信心の篤い女性がおられました。そのお軽さんが、往生される間際に、後に残る人々へ、次のような言葉を遺(のこ)されたと伝えられています。
「亡(な)きあとに軽(かる)を尋(たず)ぬる人あらば、
弥陀(みだ)の浄土(じょうど)にいったと答(こた)えよ」
この言葉には、お軽さんの深い喜びがあふれています。「私の人生は、ただむなしく過ごし、ただ寂しく死んでいくような、空しい命ではありませんでした。阿弥陀さまが、いつもこの私と御一緒でした。そして、このいのちの行き先は、間違いなく阿弥陀さまのお浄土です。」と、真実の救いを確信し、喜ばれながら、真のいのちの世界であるお浄土への人生を、力強く歩み抜かれたお姿が偲ばれます。
私たちもまた、お軽さんと同じように、阿弥陀さまの確かなお救いの中にあります。