「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」の意味をやさしく解説

本記事では、『正信偈』の中でも特に重要な位置を占める第二十一句と第二十二句に焦点を当て、その意味と背景を深く掘り下げて解説します。その二句とは以下の通りです。

如来所以興出世 (にょらいしょいこうしゅっせ)
唯説弥陀本願海 (ゆいせつみだほんがんかい)

この二句は、書き下し文(漢文訓読体)では次のように読まれます。

「如来(にょらい)、世(よ)に興出(こうしゅつ)したまふ所以(ゆゑ)は、ただ弥陀(みだ)の本願海(ほんがんかい)を説(と)かんがためなり」

そして、その大意(現代語訳)は以下のようになります。

「お釈迦様(仏陀)がこの世にお出ましになられた理由は、ただひとえに、阿弥陀仏の本願という広大な海のような教えをお説きになるためであった」

これらの句の重要性

この二句は、浄土真宗の教義における根幹部分、すなわち、歴史上に実在された仏陀であるお釈迦様(釈迦牟尼仏、しゃかむにぶつ)が生涯をかけて説かれた教えの究極的な目的が、ただ一つ、阿弥陀仏による救済の教え(本願)を明らかにすることにあった、という重要な教理を凝縮して示しています 。

『正信偈』全体の構成から見ても、これらの句は非常に重要な転換点に位置します。『正信偈』はまず冒頭で阿弥陀仏への帰依(「帰命無量寿如来 南無不可思議光」)を表明し、次に阿弥陀仏が法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として本願を建てられた経緯(「法蔵菩薩因位時…」)を詳述します 。そして、この第二十一・二十二句において、私たちがなぜ阿弥陀仏とその本願について知ることができるのか、その根拠を明確に示すのです。それは、他ならぬお釈迦様が、この教えを説くことをご自身の究極の目的(出世の本懐)としてこの世に出現されたからである、と宣言するのです。

特に第二十二句の冒頭にある「唯(ゆい)」の一字は、「ただ~だけ」という意味を強調し、お釈迦様の多岐にわたる教説が、浄土真宗の理解においては究極的にこの阿弥陀仏の本願という一点につきる事を示唆します 。これにより、阿弥陀仏の本願は、数ある仏教の教えの一つとしてではなく、この末法(まっぽう)と呼ばれる時代に生きる私たちにとって、お釈迦様が指し示された唯一絶対の救いの道として位置づけられるのです。この二句は、阿弥陀仏への讃嘆から、その教えが私たちに届けられた権威ある由来へと視点を移し、浄土真宗の教えの正当性を確立する上で、決定的な役割を果たしています。

2. 第一句「如来所以興出世」– 如来が世に出興したまう所以

2.1 各語の解説

如来 (にょらい)

  • 一般的な意味: 「如来」はサンスクリット語「タターガタ(Tathāgata)」の漢訳で、「真如(しんにょ、ありのままの真実)」から来られた方、あるいは真如に至られた方という意味を持ち、仏陀(ぶっだ、覚者)の尊称の一つです。
  • この文脈での特定の意味: 『正信偈』のこの句における「如来」は、文脈上、主に仏教の開祖であるお釈迦様(釈迦牟尼仏)を指しています 。
  • 文脈上の根拠: 次の「世に興出したまふ」(この世にお出ましになる)という表現が、歴史上、この地球上に出現して仏法を説かれたお釈迦様を特定する強い根拠となります 。

所以 (しょい)

  • 意味: 「~するところの理由」「~のわけ」「目的」を意味します。  
  • 意義: この語は、お釈迦様のこの世への出現が単なる偶然ではなく、明確で深遠な目的を持った意図的な出来事であったことを示唆しています。

興出世 (こうしゅっせ)

  • 意味: 「興」は起こる、盛んになる、「出世」はこの世に出現することを意味します。「出世(しゅっせ)」は仏教用語として、仏や菩薩が衆生(しゅじょう、生きとし生けるもの)を救済するために、この世に姿を現すことを指します 。単に生まれるというだけでなく、衆生済度(しゅじょうさいど)という目的を持った出現を意味します。

2.2 句全体の意味と解釈

  • 文字通りの意味: 「如来(お釈迦様)が、この世にお出ましになられた理由は…」となります 。
  • 浄土真宗における解釈: この句は、続く第二十二句への問いかけとして機能します。お釈迦様が45年間にわたって説かれた膨大な教え(一切経)の、その根本にある究極の目的は何だったのか?という問いを提起し、親鸞聖人はその答えが唯一であり、明確であることを示そうとしています 。

2.3 背景:出世本懐 (しゅっせほんがい)

この句を理解する上で鍵となるのが「出世本懐」という仏教の概念です。

  • 定義: 「出世本懐」とは、仏がこの世に出現された本来の目的、究極の意図を指します 。単に教えを説くということ以上に、その教説の中心にある最も重要なメッセージを意味します。
  • 浄土真宗における特定: 親鸞聖人は、お釈迦様の出世本懐を明らかにした経典として、『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう、通称『大経』)を特定しました 。これは、経典が説かれた時期ではなく、その内容が阿弥陀仏の本願による救済を明らかにしているという点に基づいています 。
  • 『大無量寿経』における根拠: 親鸞聖人が特に重視したのは、『大経』の序盤にある次の一節です。

「如来(にょらい)、無蓋(むがい)の大悲(だいひ)をもつて三界(さんがい)を矜哀(こうあい)したまふ。世(よ)に出興(しゅっこう)するゆゑは、道教(どうきょう)を光闡(こうせん)して、群萌(ぐんもう)を拯(すく)ひ恵(めぐ)むに真実(しんじつ)の利(り)をもつてせんと欲(おぼ)してなり」(註釈版9頁)。現代語訳では、「如来(仏)は、この上ない大いなる慈悲の心をもって、(迷いの世界である)三界の衆生を深く憐れみ悲しまれる。この世に出現された理由は、仏の教えを説き明かして、多くの人々を救い、真実の利益(りやく)を恵み与えようとお考えになったからである。

となります 。

  • 「真実の利」の解釈: 親鸞聖人は、この『大無量寿経』に説かれる「真実の利」とは、具体的には阿弥陀仏の本願(弥陀の誓願)そのものであると解釈しました 。したがって、この「真実の利」=「阿弥陀仏の本願」を衆生に恵み与えることこそが、お釈迦様の出世本懐であると結論付けたのです。

この親鸞聖人による出世本懐の解釈は、お釈迦様の一代の教説を捉え直す重要な視点を提供します。それは、お釈迦様が説かれた様々な教え(例えば、自力で悟りを目指す聖道門の教えなど)は、究極的には、この「真実の利」である阿弥陀仏の本願へと衆生を導くための方便(ほうべん、巧みな手段)であったと理解するものです。お釈迦様の45年間の教説は多岐にわたりますが 、出世本懐の教理は、その多様性の背後に単一の究極目的が存在することを示唆します 。親鸞聖人がその目的を阿弥陀仏の本願(『大経』に説かれる「真実の利」)と特定したことにより 、『大経』と阿弥陀仏の本願は、お釈迦様の教えの頂点に位置づけられ、他の教えは、この究極の教えに至るための準備段階、あるいは文脈を提供するものとして捉えられます。これは浄土真宗の教義の核心をなす考え方です。『大経』自体にも、他の教えが滅びてもこの経だけは特別に留め置かれるであろうと説かれる「特留此経(とくるしきょう)」の文言など、その独自性と重要性を示唆する記述が見られます 。

3. 第二句「唯説弥陀本願海」– ただ弥陀の本願海を説かんと

3.1 各語の解説

唯説 (ゆいせつ)

  • 意味: 「唯」は「ただ~だけ」、「説」は説き明かす、教えるという意味です。合わせて「ただひとえに~を説く」「もっぱら~を説き明かす」という意味になります 。
  • 意義: この語は、前の句で示されたお釈迦様の目的が、阿弥陀仏の本願という一点に集約されることを強調します。浄土真宗において、阿弥陀仏の本願が衆生救済のための唯一かつ十分な道であることを示唆しています 。

弥陀 (みだ)

  • 意味: 阿弥陀仏(あみだぶつ)の略称です 。阿弥陀仏は、無量の寿命(無量寿)と無量の光明(無量光)を持つ仏として知られ、浄土教の中心的な仏です。

本願 (ほんがん)

  • 意味: 阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩という名の菩薩であった修行時代に、すべての衆生を救済するために建てられた根本的な誓願のことです 。特に、念仏と信心による救済を誓った第十八願が中心とされますが、衆生救済に向けられた阿弥陀仏の広大無辺な慈悲の意図全体を指します 。
  • 本願の核心: その中心は、「迷い苦しむものを救う」という誓いです 。

海 (かい)

  • 意味: 文字通り、海(うみ)を意味します。
  • 意義: ここでは、阿弥陀仏の本願の性質を表現するための、力強く豊かな比喩として用いられています 。

3.2 句全体の意味と解釈

  • 文字通りの意味: 「…ただ阿弥陀仏の本願という海のような教えを説くためであった」となります 。
  • 浄土真宗における解釈: この句は、第一句で提起された問いに対する直接的な答えです。お釈迦様のこの世における全使命は、阿弥陀仏の救済の本願が、いかに広大で、深く、すべてを包み込むものであるかを明らかにすることに尽きる、と宣言するものです。

3.3 本願の「海」の比喩

阿弥陀仏の本願を「海」に喩えることには、幾重にも重なった深い意味が込められています。

  • 広大さ・深遠さ: 海の計り知れない広さや深さは、阿弥陀仏の慈悲と智慧が無限であり、人間の思量分別を超えていることを象徴します 。
  • すべてを受け入れる包括性: 海が清らかな川も濁った川も分け隔てなく受け入れるように、阿弥陀仏の本願は、善人・悪人、賢者・愚者、聖者・罪人といったあらゆる衆生を差別なく、そのままの姿で受け入れ、救いの対象とします 。煩悩(ぼんのう)にまみれた凡夫(ぼんぶ)であっても、決して見捨てられることはありません 。
  • 浄化と転換: あらゆる川の水が海に流れ込めば等しく塩水となるように、本願を信じ、お念仏(南無阿弥陀仏と称えること)に身を委ねる者は、どのような過去や性質を持っていようとも、阿弥陀仏の功徳によって転換され、浄土に生まれる身となり、本願の功徳という一つの味(一味)になるとされます 。私たちの罪悪や煩悩の水さえも、功徳の水へと変えられるのです 。
  • 生命・功徳の源泉(功徳大宝海 - くどくだいほうかい): 本願は、衆生を悟りへと育む、広大な功徳の宝の海であると表現されます 。
  • 苦しみの海との対比(生死海 - しょうじかい): 私たちが輪廻(りんね)を繰り返す苦しみの世界は「生死(しょうじ)の海」と喩えられますが、それに対して「本願の海」は、その苦しみの海を渡るための唯一の乗り物(「本願の船」、「弘誓(ぐぜい)のふね」)を提供し、安らかな彼岸(ひがん、悟りの世界)へと至らせる救済の領域を示します 。

このように、「海」という比喩は非常に多義的であり、阿弥陀仏の本願の無限の広がり、無差別の受容、衆生を転換させる力、そして苦しみの海を渡る唯一の道であることを同時に表現しています。それは、有限で汚れた存在である私たち衆生の状態と、無限で清浄な阿弥陀仏の慈悲の力を鮮やかに対比させるものです。親鸞聖人は、衆生の苦悩に満ちたありさまをも「群生海(ぐんじょうかい)」や「衆生海(しゅじょうかい)」と「海」を用いて表現することがあり 、この対比的な用法によって、問題(私たちの苦悩の海)と解決(阿弥陀仏の本願の海)を同じ強力なイメージで示し、本願の救済力を際立たせています。

4. 文脈と意義:二句を結びつけて

4.1 二句の結合メッセージ

「如来所以興出世」と「唯説弥陀本願海」の二句は、分かちがたく結びついて、一つの重要なメッセージを伝えています。それは、歴史上の仏陀であるお釈迦様がこの世に出現され、生涯をかけて教えを説かれた究極の目的は、ただ一つ、広大な海に喩えられる阿弥陀仏の本願による絶対的な救済の道を明らかにすることにあった、という宣言です 。

4.2 後続句との関連

この二句の重要性は、直後に続く二句との関係性において、さらに明確になります。

  • 五濁悪時群生海 (ごじょくあくじぐんじょうかい): 「五濁悪時の群生海」。これは「五つの濁りに満ちた悪い時代に生きる、海のように数限りない衆生」という意味です。「五濁」とは、劫濁(こうじょく、時代の濁り)、見濁(けんじょく、思想・見解の濁り)、煩悩濁(ぼんのうじょく、人々の迷いの濁り)、衆生濁(しゅじょうじょく、人々の資質の低下)、命濁(みょうじょく、寿命の短縮)を指し、末法と呼ばれる救われがたい時代の様相を示します 。この句は、お釈迦様が阿弥陀仏の本願を説かれたのは、まさにこのような困難な時代に生き、自力での覚りを開くことが難しい私たち衆生のためであったことを示しています 。「群生海」という言葉が「本願海」と呼応し、苦悩の海に沈む衆生を、本願の海がそのまま受け止めることを暗示しています。
  • 応信如来如実言 (おうしんにょらいにょじつごん): 「応(まさ)に如来(にょらい)如実(にょじつ)の言を信ずべし」。これは「まさに、お釈迦様の真実そのままの言葉を信じるべきである」という強い勧めです。「如実言」とは、真実のありようのままの言葉、すなわち、お釈迦様が出世の本懐として説かれた阿弥陀仏の本願(=本願海)を指します 。

したがって、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」に続く「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という流れは、極めて明確な論理構造と救済論的なメッセージを形成しています。すなわち、(1) お釈迦様の唯一の目的は阿弥陀仏の本願を説くことにあった。(2) その教えは、特に五濁悪時という困難な時代に生きる私たち衆生に向けられている。(3) それゆえに、そのような衆生は、お釈迦様が伝えられたこの本願の教え(如実言)を、疑いなく信じるべきである、という強い呼びかけとなっているのです。これは、浄土真宗の教えへの核心的な招きと言えます。普遍的な原理(仏の目的)から、具体的な対象(この時代の私たち)へ、そして直接的な行動の促し(本願を信ぜよ)へと展開することで、教えの妥当性と、私たち一人ひとりにとっての必要性を力強く示しています。

4.3 正信偈全体における位置づけ

『正信偈』全体の構成において、この二句は、冒頭の阿弥陀仏への帰依と本願成就の讃嘆に続き、その教えが私たちに伝わる由来とその権威(お釈迦様の出世本懐)を明確にする役割を担っています。これによって、その後に続く信心(しんじん)の重要性、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の意味、そして教えを伝えてきた七高僧への敬意といった議論が、歴史上の仏陀であるお釈迦様の究極の意図に基づいていることを確立します。

4.4 親鸞聖人の思想における重要性

この二句は、親鸞聖人自身の求道の歩みを色濃く反映しています。比叡山での20年間にわたる厳しい自力修行によっては悟りを得られず、自身の煩悩の深さに苦悩した親鸞聖人は、師である法然聖人との出会いを通して、阿弥陀仏の本願(他力)による救済の教えに巡り遇いました 。この二句には、阿弥陀仏の本願こそが、お釈迦様が自分のような煩悩具足の凡夫のために説き示してくださった真実の教えであったと確信した、親鸞聖人の深い喜びと感動が込められています 。

また、この二句は、浄土真宗における他力本願の思想的根幹をなします。阿弥陀仏の本願にすべてを任せる道が、お釈迦様の究極の意図に基づいていることを示すことで、特に末法という自力修行が困難とされる時代において、他力への帰依こそが唯一の救済の道であることを正当化しています 。

5. 現代的意義:現代に響く呼びかけ

5.1 現代社会と五濁悪時

「五濁悪時」という言葉は、現代社会に生きる私たちが抱える様々な問題や感覚と響き合う側面を持っています。情報過多による価値観の混乱(見濁)、絶え間ない競争や変化から生じるストレスや不安(煩悩濁)、孤独感や人間関係の希薄化(衆生濁)、環境問題や生命倫理をめぐる問い(命濁)、そして時代の閉塞感(劫濁)など、形は変われども、人々が苦悩し、確かなものを見出しにくい状況は、現代にも通じるものがあると言えるでしょう 。人々が不安を抱え、何かにすがりたいと思う心理を利用するような動きが見られることも、現代社会の一側面かもしれません 。

5.2 本願海への呼びかけ

このような現代において、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」の二句は、時代を超えた希望のメッセージを投げかけています。それは、どのような時代であろうと、どのような個人であろうと、私たち一人ひとりの救済のために、阿弥陀仏によって広大無辺な本願(本願海)が既に成就されているという知らせです 。

この教えは、不確実な自己の努力(自力)に頼ることから、阿弥陀仏の本願という確かな救済力(他力)に信頼を転換することを勧めます 。それは、自分自身の限界や不完全さ(凡夫であること)を深く認め、同時に、そのような自分に向けられている限りない慈悲への深い感謝(報恩謝徳)を育む道でもあります 。

この教えが現代においても持つ意義は、人間の根源的な苦悩と、究極的な意味や安心を求める心に応える点にあります。お釈迦様の目的が、困難な時代(五濁悪時)に生きる衆生のために阿弥陀仏の本願を明らかにすることであったと説くことで、これらの句は、個人的な問題や社会的な困難に圧倒されそうになっている全ての人々に直接語りかけます。そして、自己達成や自己改善による救済ではなく、信頼と受容に基づく、他力による救済の道を提供するのです。不完全な私たちを、そのままの姿で受け入れ救済するという阿弥陀仏の本願の約束(お釈迦様によって明らかにされた最高の真実)は、現代社会を生きる私たちにとって、深い慰めと揺るぎない精神的な拠り所となり得るでしょう。生涯悪人であっても、本願を信じれば往生できるとまで説かれる この教えは、自己肯定感が揺らぎやすい現代において、究極的な肯定と希望を与えるものと言えます。

6. 結論:本願の大海を信じる

6.1 要点の再確認

『正信偈』の第二十一・二十二句「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」は、お釈迦様がこの世に出現された究極の目的(出世本懐)が、ただひとえに阿弥陀仏の本願(本願海)を説き明かすことにあったと宣言する、浄土真宗の教義の核心を示す言葉です。

「海」という比喩は、阿弥陀仏の本願が、いかに広大で、すべてを受け入れ、私たちを苦悩から救い出し、浄土へと転換させる力を持つかを豊かに表現しています。そしてこの本願の教えは、まさに五濁悪時という困難な時代に生きる私たちに向けられたものであり、だからこそ、お釈迦様の真実の言葉(如実言)として、深く信じるべきであると勧められているのです。

6.2 親鸞聖人の喜びと私たちへのメッセージ

親鸞聖人は、この教えとの出遇いを、お釈迦様が自分自身のために遺してくださった救いのメッセージとして受け止め、深い喜びと感謝のうちに生きました 。遇いがたい教えに今遇えたこと、聞きがたい教えを今聞くことができたという感動が、これらの句には脈打っています 。

この二句は、私たち読者一人ひとりに対しても、阿弥陀仏の本願の意味を自身の人生において深く味わい、受け止めるよう呼びかけています。それは、お釈迦様が全生涯をかけて指し示された、究極の慈悲の顕れなのです。

-正信偈のこころ