無数の星と宇宙の広がり
久しぶりに、ゆっくりと夜空を改めて見上げると、そこには無数の星たちが、それぞれの輝きを放っていました。澄んだ空気の中では、一つ一つの光がより一層強く感じられ、とても美しいものです。その無数の星々の輝きを見ていると、その不思議な魅力と共に、「この宇宙は、いったいどこまで続いているのだろうか」「どこが端っこなんだろうか」などと考えてしまい、その果てしないひろさ、大きさには、ただただ想像もつきません。
その宇宙の果ての、またその果ての星に、私たちのような生きとし生けるものが存在するかどうかは、今日の科学をもってしても分かりません。しかし、仏さまの智慧の光は、この地球だけではなく、大宇宙(大千世界)の隅の隅々にまで遍く照らし、行き渡っている無辺(むへん)の光である、と聞かせていただく時、親鸞聖人が『正信念仏偈』の中でお示しくださった、阿弥陀さまの光明を讃える次の一句に、改めて驚嘆せずにはおれません。
「不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)」
(意訳:阿弥陀さまの光は、私たちの煩悩や迷いによって妨げられることなく(不断)、私たちの思議(考え)や称賛(言葉)を完全に超えている(難思・無称)、そのような広大無辺の光なのである)
光の速さ、光の記憶
ひかり(光)の速さは、ご存知のようにとても速く、一秒間に進む距離は、この地球を七周半もするほどだと言われます。「あー」と声を出す、その僅かな間に、月まで到達してしまうそうです。その光が、一年間かけて進む距離を「一光年(いちこうねん)」といいますが、これはとてつもない距離です。
例えば、比較的近くにあるアンドロメダ星雲までの距離が、約230万光年といわれます。ということは、私たちが今、夜空に見ているアンドロメダ星雲の光は、実に230万年も前に、かの星雲から発せられた光なのだと聞くと、なんとも不思議な気持ちになります。気の遠くなるような時間を旅してきた光を、私たちは今、ここで見ているのです。
大いなる光と、ちっぽけな私
この地球上にも、それこそ夜空の星の数ほどの、何十億という人々が生活しております。しかし、その中で、浄土真宗のみ教えに出遇い、ご縁を結ばせていただいている人の数は、一体どのくらいでありましょうか。
そして、たとえ幸いにも浄土真宗のみ教えに出遇うことができたとしても、この私の日々のありさまはといえば、むさぼり(貪欲)、いかり(瞋恚)、にくしみ(憎悪)といった煩悩(ぼんのう)を、繰り返し起こし続けているばかりです。それが、阿弥陀さまの真実のひかりに照らしだされた、ありのままの私の姿なのだと聞かされます。
受け継がれてきたお念仏
私が幼き時より、その意味もよく分からずに「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、お念仏を聞かせてくださったのは、父であり、母であり、そして祖父母でありました。きっと、その父や母も、そのまた父や母(私の曽祖父母)も、同じようにお念仏を申されていたことでしょう。そのまた昔の、私が会ったこともない、曾(ひい)、曾(ひい)、曾々々々(ひいひい)…と続く、遠いご先祖さまが申されたお念仏も、今、私が称えさせていただいているこのお念仏も、その根源は一つです。
変わらない親さまの願い
何百年、何万年も前に、遠い星から発せられた光が、その輝きを変えることなく、今もこの私に届いているように。阿弥陀さまの、
「われにまかせよ、そのままのあなたを、必ず救う」
という、私たちに向けられた願い(本願)は、私が生まれる遥か昔から、何一つ変わることなく、時代を超え、場所を隔てず、常にこの私の上に、はたらき続けてくださっていたのです。昔のご先祖さまにとっての阿弥陀さまも、今の私にとっての阿弥陀さまも、全く同じ、真実(まこと)の親さまでありました。
光よりも速く届くもの
阿弥陀さまは、そのような私の煩悩にまみれた姿、そしてすぐに仏さまの願いを忘れてしまうような私の性質をすべてお見通しの上で、それでもなお、この私を救わずにはおれないと、願いをかけてくださっています。そして、その願いのままに、ひかり(物理的な光)よりも速く、いつでもどこでも、この私のところにまで、「私はここにいるよ」と、そのお名前である六字の名号(みょうごう:「な・も・あ・み・だ・ぶつ」)を届け、そして私の口に称名(しょうみょう:お念仏を称えること)させてくださる。
そのお念仏が、この私を真実の光で照らし、この虚しいだけの人生を、仏さまと共に歩む、光り輝く人生へと転じてくださるのでありました。