将来の夢と 周囲の期待
「将来、何になりたいですか。」
おそらく、誰でも子供の頃に、大人たちから一度は聞かれたことがある質問だと思います。
将来の夢。自分自身のあらゆる可能性を思い描きながら、「あれになりたいな」「こんなこともしてみたいな」と考えていると、心がワクワクしたり、ドキドキしたり、とても楽しくなったり、嬉しくなったり…。希望に満ちた未来を語る子どもたちの表情は、きっと、きらきらとした笑顔にあふれていることでしょう。
でも、私の場合は、あまり将来は何になるのとは聞かれませんでした。大人はこう言うのでした。
「お寺の子はお寺の子らしく、ちゃんとお坊さんになるんでしょ。そうでなければいけませんよ。」
「〇〇らしく」という窮屈さ
確かに、縁あって今の私には、お坊さんという立場が与えられています。しかし、当時は、「お寺の子らしくしなさい」とか「男の子らしくしなさい」といった、周りからの一方的な「〇〇らしく」という決め付け、押し付けが、きめつけが、今でもはっきりと記憶しています。
私たちは、日々の生活の中で、ついつい、「男の子らしく」「女の子らしく」「母親らしく」「父親らしく」「〇〇歳らしく」…といったように、無意識のうちに相手を何かのワクにはめこんで、自分自身の思い込み(価値観)を、相手に押しつけてしまってはいないでしょうか。
そして、そのことが、相手をがっかりさせたり、悲しませたり、時には深く苦しめたりして、相手が本来持っているはずの個性や、その人ならではの笑顔をうばってしまっている、ということがないでしょうか。
もちろん、自分自身の選びとして、「私は〇〇らしくありたい」と考えて努力することは、尊重されるべきことです。しかし、他者に対して「あなたは〇〇らしくしなさい」と言ってしまった場合、それはもはや教育やアドバイスではなく、単なる価値観の押し付け、一方的な支配でしかありません。
あなたをあなたのままに(阿弥陀さまの願い)
そのような、私たちがお互いを「〇〇らしく」という窮屈なワクにはめ込み、傷つけあってしまう現実のただ中に、阿弥陀さまは、いつも、このような温かい眼差しを向けてくださっています。
「大丈夫だよ。あなたを、あなたのままに、その個性のままに、輝かせたい。それが私の願いなのだよ。」
これが、阿弥陀さまの、私たち一人ひとりに向けられた、やさしいまなざしであり、あたたかい願いなのではないでしょうか。
「わたしらしさ」が輝く世界へ
誰かから「〇〇らしく生きなさい」と、ワクにはめこまれ、押しつけられて生きるのでもなく、かといって、周りのことなどお構いなしに、自分ひとりでわがまま勝手に生きるのでもなく、阿弥陀さまの温かい眼差しに包まれながら、「本当の私として、どうありたいのか」「どう生きたいのか」ということを、お互いに問い合い、聞き合える関係性。そして、一人ひとりの「わたしらしさ」が、そのまま尊いものとして大切にされる世の中へ。
阿弥陀さまの願いをいただきながら、そのような世の中をめざしていくことの大切さを、今回あらためて考えさせていただきました。