いつも阿弥陀様はご一緒です

私たちが日頃お経をとなえる時に読んでいるのは「正信偈」というお経です。
「帰命無碍光如来 南無不可思議光」(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)
とお唱えします。これはどういう意味でしょうか。
法事の時に読むので、専明寺の御門徒さんなら一度は聞いたことあるかと思います。
この言葉は2句に分かれていますが、どちらも阿弥陀という仏さまの事を讃題されています。
「帰命」・「南無」とは、「お任せする」という意味です。
何にお任せするのか、それは阿弥陀という仏さまに私をお任せするのです。
ですから、無量寿如来も不可思議光も、言葉が違いますが阿弥陀様のことです。
言葉が違うけれど、同じものを指しているものは、探せばたくさんあると思います。
が、今思いつくのは、「テレビ」です。
テレビの英語名は、Television(テレビジョン)ですが、カタカナ表記で「テレビ」と言います。
日本語名にするならば、受像機(「電波を」受信して映像を「映し出す」機械)といえるでしょう。
この例えが正しいかどうかは、分かりません。けれど、言葉が違えども同じものを指しているという
事は分かって頂けたでしょうか。
昔のインドでお釈迦様がお説きくださったお言葉が、お経に編纂されて
漢字に置き換えられました。インドの言葉→中国語(漢字)そして日本に伝わりました。
阿弥陀という仏さまで親しんでおりますが、インドの言葉で「アミータバ」もしくは「アミターユス」と
残されています。
正信偈の、「帰命無碍光如来 南無不可思議光」の話に戻ります。
帰命と南無は、お任せするということで、如来とは「仏さま」という意味です。
今日お伝えしたいことは、ここからです。
無量寿とは、命にかぎりがないという事です。
阿弥陀という仏さまは、どれだけ過去をさかのぼっても、未来であろうとも
命に限りがありません。無量の命だからこそ、無量寿の仏さまなのです。
過去・未来、そして当然、今もはたらき続けてくださる仏さまです。
不可思議(光)とは、私たちの思議できる・思いはかることの出来る存在ではない仏さま
だということが記されています。私たちの想像できる存在・空間・大きさを超えた
存在だからこそ、不可思議の仏さまだと記されています。
その存在は、地球の裏側だろうとも、まだ誰も足を踏み入れたことがない場所であろうとも、
どこであっても阿弥陀様のはたらきが届かぬところはないのです。
その時間・空間の無限が記されているのが、無量寿如来・不可思議光という言葉であり
そのまま阿弥陀様のことを表されています。
時間的無量・空間的無限のはたらきなのですが・・・
その中に、私が入っていることをが重要なのです。つまり無限であればこそ
その中心に私が内包されていると言えるのです。
「いつでも」・「どこでも」、今、画面を見ながら法話を打ち込んでいる私でも、
画面を通して法話をご覧くださっているあなたも、
ただいまここに、私と一緒にいてくださる」仏さま、それが阿弥陀如来さまであります。
どこにいても、どんな時でも、私たちを救うためにいつでも一緒にいてくださる
阿弥陀様でありました。私たちの生活は、そんな阿弥陀さまと一緒だと
気付かされる時、なんだか心の安らぎを覚えるのであります。
親鸞聖人のお言葉に
一人いてよろこばば二人とおもえ、
二人いてよろこばば三人とおもえ、
その一人は親鸞である。
と、言葉を残されています。
よろこぶ時だけでなく、悲しみも、怒りも、親鸞さまは私と一緒にいてくださる。
また親鸞さまがご一緒なだけではありません。阿弥陀さまもご一緒であります。
困ったとき、苦しいときに私の心の支えとなってくださいます。
手を合わせて、先にご往生された方の事を思い出してください。
ここに阿弥陀様・親鸞聖人・そして大切な方々がいつも見守っていてくださいます。
いつでも・どこでも、この私たちの事を見守る、「無量寿」「不可思議」のはたらきと
なって、今わたしのところにご一緒くださっています。南無阿弥陀仏

-法話