いくらあったら交番に届ける?

先日、寺族青年会の研修があり御講師の先生(大津東組 浄土寺 荻隆宣 先生)のご講義を受けてきました。
先生がお話の中で、このようなお話をされました。
みなさんは落ちているお金を見つけた時に、いくらだったら交番に届けますか?
先生が子供会で聞いてみると、1円でも見つけたら交番に届けるという子どももいれば、
10円、100円、1000円なら交番に届けるという様々な答だったそうです。
1円でも交番に届けると答えられた子どもがいたという事には驚きでした。もし自分だったら、
いくらだったら交番に届けるだろうか。財布であればお金以外にも色々入っているので、そのまま
届けると良いだろうが、硬貨が落ちていたとして、はたして100円玉を交番に届けて、
書類などの手続きをはたしてするだろうか、いや、そのような自信は恥ずかしながらないかと思う。
道端ではなくて、これが自動販売機の硬貨の返却口だったらどうだろうか?
10円見つけて、交番に行かれますか?
法律のことは詳しく分かりませんが、これって遺失物横領罪のようですね。
さて、もし皆さんが落し物を見つけたら今後どうしますか?
これからは交番に持って行きましょうね。
お正信偈の中に、「極重悪人唯称仏」(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)という言葉があります。
みなさんの悪人の定義ってどういったものですか?人を傷つける極悪人、悪口をいう悪人、悪業をはたらくもの、
様々なものがあります。反対に自分については、それぞれ良くも悪くも色々と評価しますよね。
どうでしょうか。自分は極悪人ではないと思いますが、それは法律に当てて罪を犯していないから悪人ではないという事がいえます。
けれども、先ほどの例のように遺失物横領罪という、気づかぬ内に罪を犯している事もあるでしょう。
法律では決められていないが、悪い行いというものもあるでしょう。行動として・口を使って行う事様々です。
さらに言えば、仏教では心で思うことも悪業(あくごう)として悪人として見るのです。
それは自分で善悪を計れば、悪人ではないが善人よりのいい人だと思うものです。
自分で善悪を計るとすれば、人に厳しく自分に甘くすることもあるでしょう。気づかぬうちに犯す罪もあるでしょう。
親鸞聖人は、なにをもって悪人と捉えられたのでしょうか。
それは、阿弥陀様の眼差しからすれば、この私の行い一つとっても充分なものはないということでしょう。
「自分のこの行いが悪だ」、「改めるべきだ」と伝えたいわけではありません。
気づかぬ内に、罪や悪業、悪口(あっく)をしていることに改めて気付かされることが大事なようです。
自分の持っているモノの価値判断、基準がいかに自己中心的なものの見方であったかを知らしめられるのかと思います。
それは、阿弥陀という存在(絶対不変なる平等の眼差し)と自らの存在を照らし合わせ、
阿弥陀という「絶対善」と自らをみると「絶対悪」とみられるのでしょう。
それは、自分が阿弥陀様・仏さまに勝る「絶対善」とは言えません。
光照らすところに、照らされたものは影ができます。それが阿弥陀様という光に対して、
私の照らされた影を見て「悪」というのです。どれだけ頑張っても影はなくせません。
光が強ければ強いほど、影も強くなるものです。
自らの姿(行い)に満足するのではなく、目を落として影(悪)について考えることが、
今の世の中については、特に必要なのではないでしょうか。

-法話