1. はじめに:正信偈と阿弥陀さまへの帰依
正信偈とは:浄土真宗門徒にとっての身近な聖典
私たち浄土真宗の門徒にとって、「正信偈」(しょうしんげ)は、お内仏(お仏壇)の前でのお勤めや法要などで、古くから親しんできた大切な聖典です。正式には「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)といい、私たちの宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん、1173~1263年)がお書きになられたものです 。
この「正信偈」は、親鸞聖人の主著であり、浄土真宗の聖典ともいわれる『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)、通称『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)という全六巻からなる書物の、「行巻」(ぎょうのまき)の末尾に記されている、七言一句、全百二十句からなる偈文(げもん、詩句形式の文)です 。
「正信偈」は、お釈迦さまが説かれたお経そのものではありません 。しかし、浄土真宗で最も大切にされる『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)をはじめとするお経 と、そのお経に説かれた阿弥陀さま(阿弥陀如来)の救いの真実を正しく受け継ぎ、伝えてこられたインド・中国・日本の七人の高僧(七高僧) の教えの要点を、親鸞聖人が深く受け止め、その深い感動と揺るぎない信心(しんじん)をもって私たちに示してくださったものです 。親鸞聖人は、お釈迦さまの時代から七高僧を経てご自身に至るまで、阿弥陀さまの本願念仏の教えが正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受け止められました 。
この「正信偈」が、今日のように私たちの日常のお勤めとして広く親しまれるようになったのは、本願寺第八代宗主である蓮如上人(れんにょしょうにん)の時代からです 。蓮如上人は、「正信偈」と親鸞聖人の作られた「和讃」(わさん)を合わせて日常のお勤めと定められました 。それは、親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さまの救いの教えを、より多くの人々が生活の中で身近に感じ、お念仏の教えに親しむことができるようにとの願いからでした 。以来、「正信偈」は浄土真宗の門徒にとって最も親しみ深いお勤めの一つとして、大切に受け継がれてきたのです 。
このように、「正信偈」は単に声に出して読むだけのものではなく、親鸞聖人ご自身の信心の表明であり、阿弥陀さまの広大な慈悲と智慧に触れ、私たち自身が救われていく道を確かめ、信心を深めていくための大切な手引きなのです 。
冒頭二句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の特別な意味
「正信偈」はその冒頭、「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)」という二句から始まります。この二句は「帰敬序」(ききょうじょ)と呼ばれ 、「正信偈」全体の導入部にあたります。ここには、親鸞聖人の阿弥陀さまへの絶対的な帰依、すなわち「すべてをおまかせします」という深い信心が表明されています 。
この短い二句の中に、親鸞聖人ご自身が阿弥陀さまの本願力によって救われたという、言葉では言い尽くせないほどの深い喜びと、浄土真宗の教えの根本である「他力本願」(阿弥陀さまのお力によって救われること)の立場が凝縮されているのです 。
したがって、この冒頭二句は、単なる挨拶や仏さまへの呼びかけではありません。「正信偈」全体を貫くテーマ、すなわち「阿弥陀さまの本願力によって、この親鸞は救われたのだ」という揺るぎない確信と、その広大無辺なご恩に対する深い喜びを示しています 。
この記事で学ぶこと:二句の深い味わい
この記事では、「正信偈」の冒頭二句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について、その正確な読み方と現代の言葉での意味、一句ずつに含まれる大切な仏教用語(帰命、無量寿如来、南無、不可思議光)の解説、そして、親鸞聖人がなぜこの二句を重ねて述べられたのか、そこに込められた深い意味や喜びについて、門徒の皆様にできるだけ分かりやすく解説してまいります。この記事を通して、「正信偈」への理解を深め、日々の生活の中で阿弥陀さまの慈悲と智慧をより身近に感じていただく一助となれば幸いです。
2. 冒頭二句の読み方と現代の言葉での意味
書き下し文:伝統的な読み方
「正信偈」は漢文で書かれていますが、伝統的に日本語として意味が通るように、語順を変えたり、助詞や助動詞などを補ったりして読みます。これを「書き下し文」といいます。冒頭二句の書き下し文は以下の通りです。
- 一句目:無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)し
- 二句目:不可思議光(ふかしぎこう)に南無(なむ)したてまつる
この書き下し文に沿って読むことで、漢文の持つ本来の意味合いを損なうことなく、日本語として理解することができます。お経や偈文を読む際の基本となりますので、ぜひ覚えておきましょう。
現代語訳:私たちへのメッセージ
次に、この二句が現代の私たちにどのようなメッセージを伝えているのか、より分かりやすい言葉で見てみましょう。
「限りないいのち(慈悲)をもって、過去・現在・未来にわたるすべての悩み苦しむものを救おうと願ってくださる阿弥陀如来に、私(親鸞)は心から帰依(きえ)いたします。また、思いはかることのできない優れた智慧の光をもって、すべてのものを照らし導いてくださる阿弥陀如来に、私(親鸞)は心から帰依(きえ)いたします。」
このように現代語に置き換えることで、親鸞聖人が阿弥陀さまのどのようなお徳に感動し、すべてをおまかせするに至ったのか、その核心にある阿弥陀さまへの絶対的な信頼と、救われたことへの深い喜びがより身近に感じられるのではないでしょうか。
3. 「帰命無量寿如来」:限りないいのちの仏さまへのおまかせ
「帰命」とは:心からの信頼とおまかせ
まず、一句目の「帰命(きみょう)」という言葉の意味を見ていきましょう。この言葉は、古代インドの言葉(サンスクリット語)である「ナマス」という言葉を、中国で意味を重視して翻訳(漢訳)したものです 。その意味は、「心から信じ敬う」「依り処とする」「(すべてを)おまかせする」ということです 。
これは、単に頭で理解したり、一時的に感情的に頼ったりすることではありません。私たちが自分の力(自力)で何とかしようとする「はからい」を捨てて、阿弥陀さまの「必ず救う」というお誓い(本願)とそのお力(本願力・他力)に、自分のすべてを投げ出して、身も心も委ねることを表しています 。
親鸞聖人は、この「帰命」という言葉を、さらに深く受け止められました。それは、私たちが阿弥陀さまに「おまかせします」と願い出る以前に、阿弥陀さまの方から私たちに向かって「私にまかせなさい。必ず救う」と、絶えず呼びかけてくださっている、その呼び声(本願招喚の勅命)であると受け止められたのです 。
この理解は、浄土真宗の教えの中心である「他力本願」を深く示しています。救いは、私たちが何かを成し遂げることによって得られるのではなく、阿弥陀さまからの働きかけによって、一方的に与えられるものなのです。私たちが救われる道は、阿弥陀さまの「まかせよ」という呼びかけに、ただ「おまかせします」と応えていく(信じ順う)こと以外にはないのです 。
「無量寿如来」とは:阿弥陀さまの無限の慈悲といのち
次に「無量寿如来(むりょうじゅにょらい)」です。これは、私たちが「阿弥陀さま」「阿弥陀仏」とお呼びしている仏さまの、たくさんあるお名前(徳を表す呼び名)の一つです 。古代インドの言葉「アミターユス」を漢訳したもので、「限りない(無量)いのち(寿)を持つ仏(如来)」という意味になります 。
これは、単に阿弥陀さまが非常に長生きであるということだけを意味するのではありません。阿弥陀さまの寿命が無限であるということは、時間という制約を超えて、遠い過去から、今この現在、そして遥かな未来に至るまで、いつの時代に生きるどのような衆生(生きとし生けるもの)をも、決して見捨てることなく救い続けようとされている、阿弥陀さまの**広大無辺な慈悲(大悲)**のお心を象徴しています 。
阿弥陀さまは、まだ仏になる前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という名の修行者であった時に、「もし私が仏になるとしても、私の寿命に限りが有るようならば、決して仏にはならない」(『仏説無量寿経』第十三願・寿命無量の願)とお誓いになりました 。このお誓いが完全に成就して仏となられたので、阿弥陀さまは「無量寿如来」と呼ばれるのです。阿弥陀さまのいのち(寿命)に限りがないからこそ、お釈迦さまの時代から二千五百年以上経った今、私たちがこの教えに出会い、救われることができるのです 。
私たちは皆、いつかは老い、病にかかり、そして死んでいかなければならないという、避けることのできない苦悩(生老病死)を抱えて生きています 。この無常の世にあって、時間という制約を超えた阿弥陀さまの「無量寿」というお徳は、私たちにとって、いついかなる時も変わることのない、究極の依り処となり、安心を与えてくださるのです 。
4. 「南無不可思議光」:はかりしれない光の仏さまへのおまかせ
「南無」とは:「帰命」と同じ、阿弥陀さまへの絶対的な信頼
二句目の「南無(なも)」という言葉も、一句目の「帰命」と同じく、古代インドの言葉「ナマス」から来ています。「帰命」が意味を重視して翻訳されたのに対し、「南無」はその音の響きに漢字を当てはめたものです(音写)。したがって、「南無」と「帰命」は全く同じ意味であり、「心から信じ敬い、すべてをおまかせします」という、阿弥陀さまへの絶対的な帰依を表す言葉なのです 。
浄土真宗の教えにおいては、この「南無」もまた、阿弥陀さまの方からの「私にまかせなさい」という呼びかけ(本願招喚の勅命)として受け止めます 。私たちが日々お称えする「南無阿弥陀仏」というお念仏は、私たちが作り出した言葉ではなく、阿弥陀さまが私たちを救うために成就し、私たちに届けてくださった救いの言葉なのです 。
親鸞聖人が「帰命」に続けて「南無」という言葉を繰り返されているのは、阿弥陀さまへの絶対的なおまかせの心が、いかに深く、揺るぎないものであるかを強調するためです。それは、一時の感情や決意ではなく、常に阿弥陀さまに立ち返り、おまかせし続ける信心のあり方を示しています。そして、この「南無」も阿弥陀さまからの働きかけであると理解することで、私たちの救いが完全に阿弥陀さまのお力(他力)によるものであることが、より一層明らかになるのです 。
「不可思議光」とは:阿弥陀さまの無限の智慧と光
次に「不可思議光(ふかしぎこう)」です。これも阿弥陀さまの別名の一つであり 、古代インドの言葉「アミターバ」を意訳したものです。「アミターバ」は「限りない(無量)光を持つ者」という意味ですが 、「不可思議光」は「思いはかることのできない(不可思議な)光を持つ仏」と訳されます 。
この「光」は、太陽や電灯のような目に見える物理的な光ではありません 。それは、私たちの迷いや煩悩の闇を破り、真実へと導く阿弥陀さまの広大無辺な智慧のはたらきを象徴しています 。この智慧の光は、同時に私たちを包み込み、護ってくださる慈悲の光でもあります 。
阿弥陀さまの光(智慧)は、空間的な制約を一切受けません。それは十方世界(あらゆる世界、宇宙全体)を遍く照らし、どのような場所にいる衆生をも、どのような深い迷いの闇の中にいる衆生をも、見つけ出し、救いへと導く力を持っています 。
阿弥陀さまは、法蔵菩薩であった時に、「もし私が仏になるとしても、私の光明に限りが有り、あらゆる世界を照らし出すことができないようならば、決して仏にはならない」(『仏説無量寿経』第十二願・光明無量の願)とお誓いになりました 。このお誓いが完全に成就した結果、阿弥陀さまは「不可思議光仏」とも呼ばれるのです。
「不可思議」という言葉が示すように、阿弥陀さまの智慧の光のはたらきは、私たち人間のちっぽけな頭で考えたり、想像したりすること(思議)を完全に超えています 。だからこそ、私たちは自分の力で阿弥陀さまの救いを理解しようとしたり、自分の行いによって救われようとしたりするのではなく、ただその不可思議な光に照らされ、導かれること(他力)に、すべてをゆだねるのです。この光は、私たちがどこにいようとも、どのような心の状態であろうとも、常に私たちを照らし、見守り、浄土に生まれ仏にさせると導いてくださるのです 。
5. なぜ帰依を繰り返すのか:阿弥陀さまの救いの全体性と親鸞聖人の喜び
「帰命」と「南無」:おまかせする心の深さ
親鸞聖人は、「正信偈」の冒頭で、「帰命」と「南無」という、同じ「阿弥陀さまにおまかせします」という意味の言葉を繰り返されています 。これはなぜでしょうか。
浄土真宗の信心は、阿弥陀さまの呼びかけを聞いたその一念(瞬間)に定まると同時に、それが生涯を通して続いていくものです。この繰り返しの表現には、救われた瞬間の喜びと、その救いが永遠に続くことへの揺るぎない確信の両方が込められていると言えるでしょう。
無量寿と不可思議光:阿弥陀さまの慈悲と智慧、時間と空間を超えたはたらき
また、親鸞聖人は、阿弥陀さまを「無量寿如来」と「不可思議光」という二つの側面から呼びかけています。これは、阿弥陀さまの救いが、私たちの存在全体に関わる、完全で円満なものであることを示しています。
「無量寿」は、阿弥陀さまの「限りないいのち」を表し、時間的な制約を超えて、いつでも私たちを救い続けてくださる**慈悲(大悲)**の側面を強調しています 。過去にどのような罪を犯した者も、未来にどのような不安を抱える者も、阿弥陀さまの慈悲から漏れることはありません。
一方、「不可思議光」は、阿弥陀さまの「はかりしれない光」を表し、空間的な制約を超えて、どこにいても私たちを照らし、迷いの闇を破って真実へと導いてくださる智慧の側面を強調しています 。どのような深い煩悩を抱えていても、どのような場所に生まれ合わせたとしても、阿弥陀さまの智慧の光は必ず私たちに届きます。
私たちの苦悩は、限りある命(時間)と、迷いの心(空間・認識)から生じます。阿弥陀さまの救いが、「無量寿」(慈悲・時間)と「不可思議光」(智慧・空間)の両面から示されることで、私たちのあらゆる苦悩に対応する、全方位的で完全な救いであることが明らかになるのです。慈悲だけ、あるいは智慧だけでは、私たちの根本的な苦悩(生死の問題)は解決されません。この二つが一体となってはたらくことによって、私たちは真の安心を得て、浄土へと往き生まれることができるのです。
親鸞聖人の感動:救われた喜びの表現
そして何よりも、この冒頭二句の繰り返しには、親鸞聖人ご自身の、阿弥陀さまの本願によって救われたことへの、計り知れない喜びと深い感動があふれ出ています 。
親鸞聖人は、比叡山での二十年にも及ぶ厳しい修行によっても、自身の煩悩からくる苦悩を解決することができませんでした 。しかし、師である法然上人(ほうねんしょうにん)との出会いを通して、阿弥陀さまの本願(他力)に身を任せることによってのみ救われるという道を知り、絶対的な安心(信心)を得られたのです 。その時の喜びは、まさに言葉では言い尽くせないものでした。
それは、長い間待ち望んでいたものが遂に手に入った時の喜び、あるいは、絶望の淵から救い出された時の感動にも似ています。例えば、長い停電の後、突然明かりが灯った時に思わず「ついた、ついた!」と叫んでしまうように 、あるいは、苦労の末に難関試験に合格した時に「やったー!」と何度も繰り返してしまうように、抑えきれない喜びが、同じ意味の言葉を重ねて表現させているのです 。
この親鸞聖人の個人的な体験に基づく深い感動と喜びは、「正信偈」全体の基調となり、私たち読む者にも、阿弥陀さまの救いの確かさと温かさを伝え、同じ信心へと導く力を持っているのです。
6. 浄土真宗の入り口として:他力信心の表明
阿弥陀さまの本願力(他力)にすべてをまかせる教え
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句は、浄土真宗の教えの核心である「他力本願」の立場を、最も簡潔かつ力強く示しています。浄土真宗の救いは、私たち自身の努力や能力、善行(自力)によって達成されるものではありません。それは、ひとえに阿弥陀さまが私たち凡夫を救おうと立てられたお誓い(本願)とその誓いを成就されたお力(本願力・他力)によってのみ、恵まれるものなのです 。
「帰命」と「南無」という言葉そのものが、この他力への絶対的な帰依、すなわち「阿弥陀さまにすべてをおまかせします」という心を表しています 。
浄土真宗の教えは、私たち自身が、自分の力ではどうすることもできない、煩悩にまみれた存在(凡夫)であるという事実に気づくと同時に、自分の力の限界を知るからこそ、阿弥陀さまの無限のお力(他力)に、心から身をゆだねることができるのです。この冒頭の二句は、まさにこの「凡夫であることの自覚」と「他力への帰依」という、自力無効・他力全託が浄土真宗の教えの特徴と言えるでしょう。
正信偈全体のテーマを示す二句
この冒頭二句は、単に親鸞聖人個人の信心表明にとどまらず、「正信偈」全体のテーマを提示する役割も担っています。
この二句に続いて、「正信偈」の本文では、阿弥陀さまが私たち凡夫のために、どのようにして尊いお誓い(本願)を立てられ、それを成就されたのか(依経段)、そして、その阿弥陀さまの救いの教えが、お釈迦さまから七高僧へと、どのように誤りなく大切に受け継がれ、親鸞聖人ご自身にまで届けられたのか(依釈段)が、詳しく讃えられていきます 。
つまり、最初に「私は阿弥陀さまに帰依します」という結論(主題)を示すことで、それに続く阿弥陀さまのご本願の物語や、七高僧の功績、そして私たち門徒への信心の勧めといった内容が、すべてこの最初の帰依の表明に基づいていることを明らかにしているのです 。これは、教えの全体像を理解する上で、非常に論理的で分かりやすい構成となっています。正信偈を学ぶことで、親鸞聖人の確信に満ちた喜びの声に触れ、その上で、なぜそのような喜びが生じたのか、その根拠となる教え(お経や七高僧)の内容を順に学んでいくことができるのです。
7. おわりに:お念仏と共に生きる
冒頭二句に込められた大切なメッセージ
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という「正信偈」の冒頭二句には、私たち浄土真宗門徒にとって、非常に大切なメッセージが込められています。それは、阿弥陀さまの限りない慈悲(無量寿)と、はかりしれない智慧(不可思議光)によって、時間も空間も超えて、この身このまま、煩悩を抱えたままで救われていくという、浄土真宗の教えの核心です。
この二句は、私たちがどのような状況にあっても、どのような過去を持ち、どのような未来への不安を抱えていようとも、決して阿弥陀さまに見捨てられることはない、という絶対的な安心の世界が開かれていることの宣言なのです。それは、苦悩や不安の多い現代社会を生きる私たちにとって、何ものにも代えがたい、大きな心の支えとなるのです。
この二句は、単なる教義の説明ではありません。それは、阿弥陀さまから私たち一人ひとりへの「必ず救う、私にまかせなさい」という温かい呼びかけであり、その呼びかけに「はい、おまかせします」と素直に応える信心の表明なのです。
日々の暮らしとお念仏
「正信偈」の冒頭二句に込められた阿弥陀さまへのお心とそのはたらきに信順する心を、私たちは日々の「南無阿弥陀仏」のお念仏としてお称えしていくことが大切です 。
浄土真宗におけるお念仏は、何か特別な能力を必要とする難しい修行ではありません。それは、阿弥陀さまの救いを常に心に留め、その広大なお慈悲と智慧に感謝を表す、最も自然で大切な行いなのです 。
私たちが人生で出会う様々な悩みや苦しみの中にあっても 、あるいは嬉しいことや楽しいことがあった喜びの中にあっても、常に阿弥陀さまが共にいてくださることを感じ、その温かい眼差しに包まれていることを喜びながら、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」とお念仏申す生活を送らせていただきましょう 。