教えを聞くことと仏事を行うこと

先日、釈徹宗さんのお話の中でこのようなお言葉がありました。
曇鸞大師『論註』三信に、淳心・一心・相続心があり、この相続心について焦点を当ててお話をされました。
その中で、教え(ロゴス)、情(パトス)、様式(エトス)という言葉を紹介されたのですが、
教えとは、仏説であり御法義といわれる教えであり、普遍的な教えです。これは時代が変われど、
国が違えど変わることなく、阿弥陀様のご本意(お心)をいただいていくことです。
けれども、教えだけでは専門的な言葉も多く、伝わらないことも多いのも事実です。
私たちは知識だけで生きているわけではなりません。そこには言葉では表せない情(パトス)を
持ち合わせ、時に流されて生きています。
やがて別れが来ると分かっていても、別離に涙するものなのです。それこそ人間本来の姿と言えます。
ただ情(パトス)だけでは流されかわってしまうものなのです。
要となるものが、教え(ロゴス)、お聴聞することが大切です。変わらないことを聞かせていただくのです。
また様式とは、仏事を営むことです。
手を合わせる中で、故人を偲ぶことです。仏壇を綺麗にして、お供え物をしてお花を飾ってなど、
お経を唱えるだけではなく、様式(エトス)を整え私たちはお勤めしています。
ある時、本堂で法事を勤めたときに涙されている方がいらっしゃいました。
それは、そう珍しいことではありません。なぜなら様式が整えられているからこそ
安心して感情を出せるのかと思います。
もし街中でみなが見ている前で、法事を勤めた場合、このように心静かにお勤めすることができるでしょうか。
周りの雑音の心を奪われ、人の目を気にしてそれどころではありません。
私たちは様式(エトス)を整えるからこそ、お荘厳・お飾りをするからこそ、
心の込めたお勤めができるのであります。
ただ、形ばかりで心がこもっていなければ(情パトスがなければ)そのようにはなりません。
そこに、教えと情と様式があればこそ、この3つが揃えばこそ法事が忘れられない
有縁の方々の時間となるのではないでしょうか。
私たちが法事を勤めるのは、けっして供養、迷いの救済ではありません。
故人を追悼する中で、ともに手を合わせるご縁をいただいているのです。
けっして空しく終わる命ではないと、仏の働きをただただ頂くばかりなのです。
縁者を呼ぶことなど準備で仏事を勤めることが負担になることもあります。
けれども、負担だけで終わる法事ではなく、相続していく中で
命のあり方を老若男女ともどもに考えさせていただく時間を設けていただければと思います。
教え・情・様式、まさに非日常的環境に身をおけばこそ、心静かに考える時間を得られるのです。
どれも大切です。

-法話

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