法話を聞いた後には

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蓮如聖人は、法話が終わったら話し合えとおっしゃっています。
前々住上人(蓮如)御法談以後、四五人の御兄弟へ仰せられ候ふ。四
五人の衆寄合ひ談合せよ。かならず五人は五人ながら意巧にきくものなるあ
ひだ、よくよく談合すべきのよし仰せられ候ふ(蓮如聞119)
何度もお聴聞を重ねても、阿弥陀様の事を「理解しよう」、「掴もう」とした所で、
それは、小さい子どもが母親の事(思い)を分かろうとすることと同じです。
お聴聞はただただ阿弥陀如来様のご本願を聞かせて頂くことが「聞く」ということです。
私も法事等で法話をしますが、なかなか難しいもので伝えようとした要点とは
違う点を大切に聞いておられたり、雑談の中で小言などに注目されることがあります。
伝えるという事は、私の人生の課題でありますが、聞き手も聞いて終わりではいけません。
蓮如聖人が、法座の後には、その聞いた内容をどのように聞いたのかをよくよく確認して
みなさいとおっしゃっています。同じ話を聞いているはずなのに5人が聞けば、
5通りの聞き方があるように、受け止め方は様々です。
例えば「海」という言葉を聞いた時、何を連想するでしょうか?
穏やかな海もあれば、荒れ狂う海を想像する場合があります。それだけじゃありません。
お魚、海水浴、水泳、または昔の海での記憶を思い起こすこともあるでしょう。
一人の経験によって、言葉は同じでも十人十色に聞き手の都合で解釈しています。
親鸞聖人は、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証62)
聞くということは、疑心をまじえない事です。私の知識や経験を挟まない事です。
お経には「阿弥陀様が救ってくださる」と説かれている事を、そのまま領解することを「聞」といい、
その「聞」が「信心」であると親鸞聖人はおっしゃっています。
子どもにとって「親心」を理解することなど、到底できません。理解できないほど尊い存在であるから
親なのであり、「分かった、理解したぞ」と主張した時点で、それは「理解出来た範疇に限定された存在」と
言えるでしょう。
子どもは親の愛情が分かろうが、分からまいがスクスクと育っていきます。
愛情があればこそ親というのであり、無条件の愛があります。
理解しないと愛情を注がない、お願いされないと愛さない。そんなものは親ではありません。
阿弥陀如来様も同じです。私を必ず救うと誓われた仏さまです。今、私に南無阿弥陀仏と
声のお念仏となっていたり届いたはたらきです。それを「聞く」ままが、自らの「信心」なのです。
なにも分かれという仏さまではありませんでした。ご法座でお聴聞する中で、すでに
私に至り届いたお救いでした。私が理解する以前より、私に「信心」となって届けられたお救いでした。
よくよくお聴聞される中で、どうぞ皆さんで感想を共有してみてください。
「あの先生は分かりやすくて良かった」、「面白い先生だった」「いまいちな・・・」など先生の批判でも結構です。
けれども、その肝心・要の部分について、どうぞ御領解を確認し合い、ともに浄土に参る喜びを
共有していただければ、お聴聞がもっと楽しくなるのではないでしょうか。

-法話

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