行とは何なのか

修行と聞いて、みなさんはどのようなものを想像されますか?
やっぱり滝に打たれるんでしょ?とか、火の中を歩いて渡るとか・・・
確かにそのようなものをテレビで見たことがあります。
見たことがあるという事は、私はやってはいないという事です。
京都から帰ってきた時に、多くのご門徒さんから「頑張って帰ってきたねー」ととても有り難そうに
迎え入れてくださった方がいます、「どんな修行をされたんですか?」と、目を輝かせて尋ねられることもありました。
しかし、「いえ、私には何も修行といえるような事はしておりません」と答えると、なにか残念そうな、
相手の期待に答えられ無かったような記憶があります。
修行と聞いて、身の危険を冒してまでする修行とは、仏教の中でも限られたものかと思います。
浄土真宗には、修行とはありません。
まず、そもそも修行とは何なのか。これは自転車を漕ぐ動作のようなものです。
「自転車を漕ぐ、結果、(車輪が回り)前へ進む」という、我が行為によって、先に進むことです。
その先とは、悟りであたり、成仏、つまり仏になることを目的としています。
ここで重要なものが、我が行為によって、悟りに近づくことについて親鸞聖人はどのようにお記しであるか、
末法第五の五百年  この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜすは  出離その後はなかるべし(正像末和讃)
要約すると、お釈迦様が涅槃に入られて、随分時間が経った今、だれが悟りを開いているだろうか。
今、阿弥陀様にお任せする以外に、私たち(衆生)が、この迷いの世を越えていける道が外にあるだろうか。
という意味であります。浄土真宗は自力の教えではありません。他力の教えであります。
一般的な仏教であれば、行とは積むものです。
けれども、浄土真宗の行とは、完成されたものと見るのです。
自力の行で積むならば、やがて完成を目指して進んでいくでしょうが、今現在に完成した人を見ません。
どれだけ頑張ろうとも、この私自身の心の罪悪深重・煩悩まみれの私であることに気づけなければ、
この自力の道がいかに難しい道かどうか判断もつかないでしょう。
そうなのです。我が身の浅ましさに気づいたならば、この道は無理なのです。
一方、浄土真宗の行とは、完成されたもの。これは、今から私が積み重ねて完成しますよっと云うのではなく、
もうすでに阿弥陀様のお力によって、完成されているのです。阿弥陀様のものですから、完成されたものであり、
私のものと比べるものでもありません。
行とは、完成されたもの。それは、阿弥陀様がご準備くださった南無阿弥陀仏の六字のお念仏なのです。
私が称える念佛が、浄土に行く切符(条件)になるのではありません。
もうすでに、この私のところに、阿弥陀様のはたらきが届いていることに感謝申し上げる、これが
御恩報謝(つまり感謝や喜びなど)のお念仏なのです。
積み重ねることも有り難いことですが、積み重ねている途中にはゴールはありません。
もしも明日命終えるかもしれない、この命です。で、あるならば、自ずと
自分が選び取っていく道が、分かるでしょう。
その前に、自分を見つめて悟れるほどの身か考えてみてください。
心は蛇蝎のごとくにて、という言葉があるように、私だって笑顔の裏の心は誰にも見せられませんよー。

-法話

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