お供えものと本当の供養-提婆菩薩の問いかけ-

お墓やお納骨壇で目にするもの

各地のお寺にある納骨壇やお墓などにお参りしておりますと、お花やお菓子などと共に、様々なものがお供えされているのを目にすることがあります。 例えば、ワンカップの日本酒の蓋が開けて置いてあったり、香炉の中に、お線香の代わりに火をつけたタバコが立ててあったりすることも。

ある時、どうしてそれらをお供えされているのか、理由をたずねてみますと、ご遺族の方は、このように答えてくださいました。

「主人は生前、本当にお酒が大好きだったものですから」 「うちのおじいちゃんはヘビースモーカーでねぇ。亡くなってもやっぱりタバコが吸いたいんじゃないかな、と思って…」

故人を偲び、生前の好物をお供えしたい、というお気持ちは、よく分かります。

川岸での問い(提婆菩薩のお話)

しかし、このようなお供えについて、深く考えさせられる仏教のお話があります。今から1700年ほど昔、現在のスリランカ(師子国)からインドへ渡られた提婆(だいば)という高名な菩薩さまがおられました。龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)のお弟子としても知られる方です。

この提婆菩薩が、仏法を広めるために中インドのある村へ行かれた時のことです。村を流れる大きな川のほとりを通られると、たくさんの村人たちが川の中に入り、皆、一心に手を動かして、一生懸命に川の水をかき混ぜ、波を立てている。そんな不思議な光景をご覧になりました。

提婆菩薩が、村人の一人に「皆さんは、一体何をしておられるのですか?」とたずねられると、その村人はこう答えました。

「これは、近親者が亡くなった時に行う、我々の大切な習わしでしてな。こうして川の水をかき混ぜて波を立てることで、亡くなった人の霊を慰めているのです。」

提婆菩薩はそれを聞かれると、黙ってご自分も川の中へ入って行かれました。そして、村人たちとは全く違う動作で、両手で川の水をすくっては、岸に向かって、何度も何度も投げ始められました。

村人たちは、見慣れない旅の僧侶が、自分たちの儀式とは全く違う、奇妙な動作を始めたので、不思議に思って「あなたは、一体全体、何をしておられるのですか?」とたずねました。 すると提婆菩薩は、このように答えられました。

「私の故郷は、遠く離れた南インドなのですが、そこにいる私の父や母が、水が不足して大変困っております。ですから、この川の水をすくって、南インドの父母の元へ送り届けようとしているのです。」

それを聞いた村人たちは、どっと大笑いをしました。

「はっはっは。いくらなんでも、そんな馬鹿なことがあるものか。手ですくったくらいの水が、そんなに遠い南インドまで届くわけがないではないか!」

そこで提婆菩薩は、静かに、しかしはっきりと、こう答えられました。

「なるほど、あなた方の言う通り、私が手ですくった水が、遠く離れた南インドに届くことはないでしょう。しかし、もしそれが本当ならば、あなた方がここで水をかき混ぜて立てた波が、すでに亡くなられた人の霊に届き、慰めになるなどということが、どうしてありえましょうか。同じこの世に生きている私の父母にさえ水が届かないというのに。」

村人たちは、返す言葉もありませんでした。

当たり前を問い直すこと

昔から何となく続けていること、周りの人もしているからという理由だけで行っていること。その本当の意味を問い直し、その上で、もし誤りがあればそれを正し、あるいは、意味がないと分かれば、きっぱりとやめる、ということは、私たちにとって、なかなかできないものです。また、他人から「それは間違っているのではないか」と誤りを指摘されても、素直に「なるほど、そうだったか」と聞く耳を持つことも、難しいことが多いのではないでしょうか。

先祖(ほとけ)さまが本当に喜ばれること

この提婆菩薩のお話を、私たち自身の問題として、もう一度考えてみたいものです。 お墓やお仏壇へのお供えも、ただ習慣だから、皆がしているから、というだけでなく、その意味を改めて確認していくことが大切です。

そして、仏さまとなられたご先祖さま、亡き方が、一番喜んでくださることは何でしょうか。それは、珍しいお菓子や高価なお酒をお供えすることよりも、今、この世に生かされている私たち自身が、阿弥陀さまの教えを聞かせていただき、そして、いつかまた必ず同じ場所で会い合うことができる世界(倶会一処 - くえいっしょのお浄土)へと続く道を、力強く生き抜いていく、その姿ではないでしょうか。

「私が仏法を聞き、お念仏申す身となりましたよ」と、ご先祖さまにご報告できる。そのことこそが、何よりの供養であり、ご先祖さまが一番喜んでくださることなのです。その「心」が、何よりも肝心なのだと、気づかせていただきたいものです。

-法話