「かあさんが夜なべをして 手袋あんでくれた♪」
という歌を聞いたことがあるだろう。
童謡の中でも有名な曲であるが、その続きを知らなかったので
ふと気になり調べてみると、以下にこのような歌詞が続くのである。
「かあさんが 夜なべをして 手袋あんでくれた
木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて せっせとあんだだよ
ふるさとの 便りはとどく いろりのにおいがした
かあさんが 麻糸つむぐ 一日つむぐ
おとうは土間で わら打ち仕事 お前もがんばれよと
ふるさとの冬は さみしい せめてラジオ 聞かせたい
かあさんの あかぎれ痛い 生みそをすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで 畑が待っているよ
小川のせせらぎが 聞こえる
なつかしさが しみとおる
なつかしさが しみとおる」(歌:童謡・唱歌 作詞:窪田聡)
このようになっているのです。全部覚えていたでしょうか?
最初は聞いたことがありましたが、最後まで聞いたことがないように思います。
歌詞の情景を思い描いてみますと、時代が大きく異るかと思います。
しかし、時代は違えど、この歌詞の主人公は親の思いを我が心にかけて
歌われているのだ分かります。
この歌詞には、「木枯らし吹いちゃ 冷たかろう」、「お前もがんばれよ」
と、親が子どもに語りかける言葉が入っています。
これらの言葉は単に「親からこのように言われました」というように
表面的に書かれているのではなく、親が「子を思う心」を受けた主人公が
この短い言葉の中に親の愛情いっぱいを受け取って味わっている
ように思います。
子どもは自ら大きくなったのではない、
一人で大人になって都会に行ったのではない、
大人になって自立していると思っていたが、都会で頑張る自分を
いつまでも思う親心を受けた(気づいた)慈愛の歌のようであります。
親のお育てがあればこそ今があり、
親を思うこころに育ててくれたのは、親が自分を思っていてくれればこそでありました。
先手の親(の愛情)があればこそ、今の人生があったのです。
さらに、今の今まで、自分の事を忘れずに思っていてくれていると気づく
親の偉大さが手紙の中に、言葉と愛情と故郷の匂いを感じたことでしょう。
阿弥陀如来さまを親様と喩えられます。それは、自らの人生をどのように生きようとも
けっして忘れず見捨てないからこそ親様だと言われるのです。
感謝もしない、いつも忘れている、見返りなども期待できない私に向って、
この命終える時に必ず仏とすると誓ってくださった、私が仏にならないならば
自らも仏とはならん、
「子どもが救われないのならば親とはならん」とお誓い下さったのが親様・阿弥陀如来様であります。
南無阿弥陀仏のお念仏は、私が仏に向かって「助けてくれよ、振り向いてくれよ」と言っているのではありません。
私が気づかぬ昔から、私に向ってはたらきくださればそこ、私の口からお念仏となって「南無阿弥陀仏」と
出ているのです。
私の事を必ず救うと誓われた先手の阿弥陀如来様でありました。
私は、ただただお任せするしか道はなし。この人生をどのように終えようとも、死に様・あり方は問わない
御慈悲いっぱいの仏さまなのです。
かあさんの歌