愛とは、とても素敵なものです。異性への愛、子どもへの愛、親子双方向性の愛と様々です。
これらの姿は否定されるべきものではないかと思います。
けれども、仏教書などを読むと、愛は「渇愛」、「愛欲」など、いい意味で使われることがありません。
一部、良い意味で使われることもありますが、愛よりも慈悲と表されます。
友人の言葉ですが、愛と慈悲の違いを的確に説明したものがあります。
愛とは、遮られると憎しみに変わり
慈悲とは、遮られると遮られるほど強くはたらく
と、説明がありました。この説明を聞いて「なるほど」と思った次第であります。
例えば恋愛をしている時に、彼女のことを思えば思うほど愛の思いは強くなります。
しかし、強ければ強いほど、この気持に答えて貰えなかったり気づいて貰えない場合に、
その愛の強さは、「どうして答えてくれないんだ」「こんなに俺は愛しているのに」と、
彼女へ向けた愛が、憎しみへの方向性へと取って代わってしまいます。
愛するがゆえに、またその思いが憎しみへと変わることがあるのです。
愛と表現されるものは、異性への愛など素晴らしいものですが、歯車が狂うと
それは全く方向性が変わってしまうものなのです。
一方慈悲とは、どのように例えることができるか。
仏さまが私たちを見守ってくださるのは、愛ではなく慈悲の心です。
いったい仏さまやご先祖様、親様の慈悲の心を味わってみます。
それは、親が子どもを見守る心と受け止められます。
生まれたばかりの私は、何も出来なかったでしょう。なんの役にも立たない、感謝も言えない。
3歳・5歳と成長しても、何一つ変わらす、親は育ててくれました。
きっと見ていて危ないこともあったでしょう、怪我をしたときには心配してくれたでしょう。
その心は、愛というより慈悲の心と味わえます。
この私こそを見守り、育ててくれました。何も感謝もしないのに、見返りを求めずただ育ててくれました。
その思いを私は受け取れるはずもなく、親心から逃げまわるように、その思い・はたらきから
逃げまわっていたのでしょう。その慈悲の心が私に働いていたのに、遮り続けた私でした。
遮られ続けた親だったのでしょう。けれども、遮られれば遮られるほど、子どもを思う気持ちが強くなる、
これが慈悲の心なのです。けっして憎しみに変わるものではありません。
私に対する思いは、慈悲の心と例える事ができますが、それは狭い範囲・限定されたものであり、
究極の慈悲ではありません。我が子には慈悲の心が働いても、隣の子供に同等の思いははたらきません。
親が子供に対する心を究極な慈悲とは言えないのです。
では、究極の慈悲の心とは、どんなものか?
それは、仏さまの私たちにはたらきかけてくださっているお心こそが、究極の慈悲なのです。
すべてのものを救う、この私を救ってくださる仏さまなのです。仏さまのはたらきが、私に至り届いているのに
関わらず、逃げまわっている私でした。その遮る私に、はたらき続けてくださる仏さまなのです。
いつでも・どこでも、けっして見捨てない仏さまがいらっしゃるので、この私の命にはたらき続けてくださっているのです。
どんな人生でも、どんな死に様でも、何一つとして遮られることはありません。
その究極の慈悲のこころがあればこそ、仏さまなのです。
私の命に何も問題はありません。条件などありません。ただその心に気づいた時に
感謝せずにはおれませんでした。念仏せずにはおれませんでした。
愛は憎しみに変わるけれども、慈悲は変わりません。
仏さまの心が変わらないからこそ、今が安心して生きて行けるのでありました。
愛と慈悲の違い