煩悩(とも)と歩む旅路 -『西遊記』に聞く阿弥陀さまの救い-

三蔵法師の選択(『西遊記』より)

多くの方がご存知の物語、『西遊記』。様々な形で小説や劇、映像作品にもなっていますが、その物語の中に、大変深く考えさせられる場面があります。それは、旅の終盤、三蔵法師(さんぞうほうし)一行が天竺(てんじく)にたどり着き、尊いお経を授かろうとする場面です。

ある場面では、三蔵法師がお経さまを授けてくださるという方(あるいは仏さま)に出遇います。しかし、それには一つ、厳しい条件が付けられていました。

その方は、三蔵法師にこう言うのです。 「お供の孫悟空(そんごくう)、猪八戒(ちょはっかい)、沙悟浄(さごじょう)の三人は、見ての通り、それぞれが実に厄介な者たちで、いつも問題ばかり引き起こしている。もし、ありがたいお経が欲しいのであれば、まず、あの三人と縁を切り、別れてきなさい」と。

三蔵法師は、はるばる遠くまでお経を求めて旅をしてきたのですから、もちろんお経は頂きたい。しかし、これまで苦楽を共に旅を続けてきた、あの三人の仲間たちと別れることは、あまりにも寂しく、辛い。三蔵法師は、しばらくの間、深く悩み考えられました。

そして、三蔵法師が出された答えは、次のようなものでした。

「いいえ、結構です。そのお経は、私には必要ありません。私が求めているのは、この三人と共に救われていくような、そういうお経なのです。ですから、私はこの三人と一緒に、これからも西へと旅を続けます。」

煩悩という「仲間」と共に

物語の作り手としては、ここで三蔵法師と三人の弟子たちとの間に生まれた、友情や信頼の深さを表現したかったのかもしれません。しかし、ここに仏教的な視点、特に「煩悩」という視点を加えてみると、この場面は大変有り難い、深い意味を持ったものとして見ることができます。

仏教では、私たちを苦しみの根源へと導くものとして、煩悩、特に「三毒(さんどく)の煩悩」というものが説かれます。その一つ目が「貪欲(とんよく):あれも欲しい、これも欲しいと貪(むさぼ)る心」。これは、『西遊記』の中では、食いしん坊の豚、猪八戒の姿で表現されているのかもしれません。次に「瞋恚(しんに):思い通りにならないとすぐに怒り、腹を立てる心」。これは、短気でよく怒る、猿の孫悟空の姿で表現されているのかもしれません。そして最後に「愚痴(ぐち):真実を知らない愚(おろ)かな心」。これは、どこかとぼけていて、掴みどころのない河童(かっぱ)、沙悟浄の姿で表現されているのかもしれません。

すなわち、『西遊記』という物語は、単に四人が一緒に旅をした、というだけではなく、三蔵法師という「私」が、自分自身の内にある、貪欲・瞋恚・愚痴という、決して切り離すことのできない煩悩(仲間)と、常に対話をしながら、人生の旅を続けていた、そういう物語としても読み取ることができるのです。

それを踏まえて、先ほどの最終回の場面をもう一度見てみると、あの三人と別れたらお経を授ける、と言われたのは、「あなたのその煩悩をすべて捨て去ることができたなら、覚りのお経を授けましょう」と言われたのと同じ意味になります。

そして、三蔵法師は、「それはできません」と、はっきりとお断りになった。煩悩を捨てることによってはじめて救われるのではなく、この捨てきることのできない煩悩を抱えたままの私たちが、そのまま救われていく教え、それを求めて、さらに西へ、現在のチベット自治区の方角へと、大乗仏教、そして阿弥陀さまのお救いを求めて、旅を続けられたのだ、と味わうことができるのではないでしょうか。

この身のままを救う仏さま

煩悩をすべて捨て去ることができたなら救ってくださる、というような条件付きの仏さまでは、阿弥陀さまはありません。この私が、生まれながらにして煩悩を持ち、自分の力ではその苦しみから到底逃れるすべを持たない、どうしようもない存在であるからこそ、「そのようなあなたを放ってはおけない」「必ず救うのだ」と、大いなる慈悲のお心から立ち上がってくださり、そして、その救いが「南無阿弥陀仏」という念仏となって、この私のところにまで仕上がって届いてくださった。それが阿弥陀さまという仏さまであります。

-法話