僧侶になって、いろんな方に出会う機会が増えました。
お参り先でお茶を飲みながら色々と談笑したり、法話をしたり、たくさんの事を
教えてもらえる機会を頂いています。
いろんな話を聞かせていただく中で、親という存在にはたくさんの共通点があるのではなかと思います。
浄土真宗大谷派の暁烏敏先生(あけがらす・はや、1877-1954)は、このような歌を残されています。
「十億の人に十億の母あらむも 我が母にまさる母ありなむや」
(十億の人に十億の母親があれども、我が母にまさる母はいない)
この歌にも表されているように、共通点とは親というものは私のことをいつも思い心配し、
そんな存在は世の中探してもおらず、他にまさるものはないと思うのです。
私が結婚してからといもの、母親の料理をあまり食べる機会が少なくなっていました。
結婚後には、食事は妻が心配してくれるおかげで、仕事に専念できるので何も心配はいりません。
どんどん幸せ太りのように肥えていくほど心配はいりません。
けれども、というか、やはり親というものは何かを持たせなければと思うのでしょう。
「一品作ったから少しもって帰りなさい」と持たせてくれます。(お陰で夕食が助かっています)
もう心配しなくても良いのに、一方的に思っていてくれるようです。それが親なのでしょうか。
布教使の藤田哲史先生が本の中で、このような話をされています。
登場人物は、藤田先生45歳。もう一人は先生のお母さん70歳です。
ある日、家がある奈良から京都まで二人で買い物に出かけようと駅まできていました。
母親の荷物と自分の荷物を両手に持った藤田さんとお母さん。
両手がふさがっていた藤田さんは切符を買うことが出来ません。
「お母ちゃん、切符を買って」
「はい、よっっしゃよっしゃ」と返事をして券売機に向かいます。
ところが、券売機には「発売中止」と出ています。
案内の張り紙には「ご迷惑をかけて申し訳ありませんが、あいにく調整中でございますので、
となりの窓口でお買い求めください」と出ていました。
二人で窓口の方に向かうわけです。
お母さんは窓口に顔を突きつけて、こう言いました
「すみません。京都まで大人1枚、子ども1枚」
先生は持っていた荷物をどんっと下に落としてしまったようです。
顔を真っ赤にして母親に向かって
「お母ちゃん、何を言ってるの」・・・・
ところが母親は気が付きません。
「なんや、あんたは私の子どもやろ」
「お母ちゃん、確かに私はお母ちゃんの子どもだけども、ここは、お母ちゃん、大人2枚だよ」
すると、ようやく気づいたのか
「ああ、そうか。あんたももう大人料金やったな」
二人のやり取りを見ていた周りの人が笑いを堪えられないほど、笑っていたといいます。
二人は恥ずかしくなって、慌てて改札をくぐり電車に飛び乗って京都に向かったとのことでした。
藤田先生のお話では、当時の情景が思い浮かびます。
45歳にもなる藤田先生にことを、いつまでも子どもの頃のように愛おしくごらんになられたのでしょう。
阿弥陀様が私たちを思う気持ちも同じでしょう。
小さい幼子であっても、エリートサラリーマンでも、年配の方であろうと、すべての命には、
阿弥陀様は、いつもいつも心配でいてくださいます。
お参りの中でも、このような話を聞かせていただきました。
「自分が病気で苦しいはずなのに、私がちゃんとご飯を食べているかいつも聞いてくれた母でした。」
その言葉を聞いた時に、やっぱり親というものの共通点として、
我が身を二の次にしても、大切なものがあって、それが何歳になっても「愛おしく」見えるようです。
孫も可愛いけれど、70に近いわが子のほうが、もっと可愛い。と言われた方もいました。
苦しみを我が苦しみとして、幸せを何よりも思っていてくれる。
苦しみは半分に、喜びは2倍にしてくれる不思議な存在です。
仏様のことを親様といわれるのは、やはりこれと同じことでしょう。
一人苦しみ悩んでいるときには、その心配をしてくれて、
嬉しい時、楽しいときには、同じように喜んでくれるのが仏様です。
お仏壇の前に座って手を合わせてください。
今日あった嬉しいこと、悲しかったこと、誰にも言えないことでも
お仏壇の前なら話せることもあるのではないでしょうか。
いつまでも変わらぬ親の思い