浄土で必ず待っています

親鸞聖人の約束「浄土にてかならず待ちまゐらせ候ふべし」

「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にて かならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」 (『親鸞聖人御消息』より)

このご文は、親鸞聖人が関東から京都に帰られてから往生されるまでの間、遠く離れた関東各地のご門弟(お念仏の仲間)に宛てて書かれたお手紙(御消息)の中にあるお言葉です。

(現代語訳) 「わたし(親鸞)は今はもうすっかり年老いてしまいましたので、きっとあなたより先に(阿弥陀さまの)お浄土へ往き生まれる(往生する)ことになるでしょう。ですから、そのお浄土で、必ず、必ず、あなた方が来られるのをお待ちしておりますよ。」

このように親鸞聖人は仰っています。このお手紙を受け取られたご門弟の方々にとって、「先に往かれた親鸞さまが、お浄土で待っていて下さる」ということが、その後の人生を生きていく上で、どれほど大きな励みとなり、心の支えとなられたことかと思います。

「待ってるからね」という言葉の力

先日、テレビの放送で、ある女性の方がインタビューに答えておられました。その方は30代で、日々忙しく仕事をされていましたが、ある日突然、身体の調子が悪くなり、夜も眠れなくなってしまったそうです。心配して病院を受診したところ、心の病気であると診断されました。すぐに職場の上司や同僚に相談し、長期のお休みをもらって、治療に専念する日々を過ごされたといいます。

幸い、現在はもうすっかり快復され、元気に仕事に復帰されていますが、その方が療養中、職場の同僚の方たちからかけてもらった、ある言葉が大変嬉しかった、と話しておられたのが印象的でした。

療養中、職場の同僚の方たちから「待ってるからね、ゆっくり治してね」と言われた言葉が大変嬉しかったと話されていました。

この「待ってるからね」という温かい一言によって、少しずつ前向きな気持ちを取り戻し、「私が帰る場所はここなんだ!」と感じることができ、それが快復への大きなきっかけとなられたそうです。

もし、同僚の方達からの「待ってるからね」という言葉がなかったとしたら、職場はただの「行き先」でしかなく、復帰すること自体が、もしかしたら辛いことのままだったかもしれません。「待っていて下さる方」がいらっしゃる。そのことによって、単なる「行き先」であった職場が、安心して「帰れる場所」となり、ご本人にとって大きな励みとなられたのでしょう。

「行き先」から「帰る場所」へ - お浄土という世界

私たちは、阿弥陀さまの教えを通して、この「いのち」は、死んで終わり、無になってしまうのではなく、阿弥陀如来の本願力によってお浄土に往き生まれ、仏さまになる「いのち」であると、お聞かせいただいています。

そして、そのお浄土には、私たちより先に往かれたご先祖の方々や、親鸞聖人をはじめとする多くの方々が、すでに仏さまとなって、今まさに私たちを待っていてくださっている。そういう世界が、現に用意されているのです。

もし、お浄土がただの「行き先」でしかなかったら、それはどこか遠い、自分とは関係の薄い世界かもしれません。しかし、「待っていて下さる方々がいる」と知らされる時、お浄土は、私たちにとって、温かく迎え入れてくれる、懐かしい「帰る場所」となるのではないでしょうか。

「お浄土で待っていてくださる世界」が約束されている人生は、それ以前の、死ねばすべてが終わりだと考えていた人生とは、全く意味合いが異なってきます。

待っていてくださる世界に生きる

あとに残されるご門弟の方々のことを深く想い、「お浄土で必ず待っていますからね」と、繰り返し伝えてくださった親鸞聖人のお言葉は、時代を超えて、現代に生きるこの私にとっても、大きな励みとなり、心強く響いてきます。

きっと、親鸞聖人から「お浄土で待ってるからね」という言葉を受け取られた方のその後の人生は、愛しい方との別れや、自身の老病死という現実を、ただ悲しいだけでは終わらせない、ただ寂しいだけでは終わらせない、阿弥陀さまの広大な慈悲の中に抱かれ、力強く生き抜いていく人生が開かれていったことでしょう。

私たちもまた、その同じお慈悲の中に生かされています。

-法話