わすれられていない安心

これは、豪雨災害で甚大な被害を受けられた、あるお寺のご門徒さんが、災害から約半年を経て、新たにお仏壇をご自宅にお迎えされた時に、つぶやかれたお言葉です。

水害によって家財など大切なものを多くなくしてしまわれたけれども、この身にずっと付き従い、遺(のこ)ってくださっていたのは「お念仏」であった、

とその心強さを、当時のことを振り返りながら語って下さいました。

被災当時は勿論のこと、避難生活や後片付けに必死だったその後の半年間は、とても心に余裕などない日々であったそうです。だからこそ、新たにお仏壇を迎え、ご本尊さまの前で再び手を合わせ、お念仏することができて、ほんとうによかった、と喜ばれていました。そして同時に、被災された時のありのままのお気持ちも、このようにお話しくださいました。

「日頃より、お説教などで『何が起こるかわからない世の中だ』と言うことは、頭では知っていましたが、実際、それを我が身に体験してみると、もう、どうしてよいかわからなくなりますね」

「いつも仏さんは私と共にいて下さっているのでしょうが、『まさか』と思うような大変なことが起こると、悲しいかな、そのことをすっかり、うち忘れてしまいますね〜」

煩悩の眼には見えねども(正信念仏偈より)

私たちは、平穏な時には仏さまのことを思っていても、いざ「まさか」という事態に直面すると、パニックになったり、目の前のことに追われたりして、仏さまの存在やそのお慈悲を忘れてしまいがちです。先の被災されたご門徒さんの言葉は、私たち自身の偽らざる姿でもあるでしょう。

親鸞聖人は、その著作『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』の中に、平安時代の僧侶である源信僧都(げんしんそうず)のお言葉を引用されて、私たちと阿弥陀さまとの関係を、次のように示してくださっています。

「我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう) 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」

(書き下し文) 「我もまたかの摂取の中に在れども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えられて見たてまつらずといえども、大悲、倦(ものう)きこと無くして、常に我が身を照らしたもう」

(意訳:この私もまた、阿弥陀さまの必ず救い摂るという光明の中に常にいますが、煩悩(自分中心の迷いの心)が眼を覆っていて、その光を見ることができません。しかし、たとえ私が見ていなくても、阿弥陀さまの大いなる慈悲の光は、飽きることなく、常にこの私の身を照らし続けてくださっているのです。)

「わすれんでくれて ありがとう」

親鸞聖人は、たとえ私たちが仏さまを忘れてしまうことがあっても、逆に、仏さま(阿弥陀さま)は常にこのわたくしを決して忘れずにいてくださるのだ、ということを、この上ない「心強い」こととして、深く喜ばれました。なぜなら、私たちは、次から次へと起こる出来事や、自分自身の煩悩によって、いとも簡単に仏さまのことを忘れてしまう存在だからです。

いつも私を憶う仏さま

このように、「忘れられていない」「気にかけてもらえている」「思ってもらえている」と感じることが、困難な状況の中にある方々にとって、どれほど大きな心の支えとなり、力となることか。

そしてそれは、とりもなおさず、阿弥陀さまという存在が、私たちにとって如何に心強いものであるか、ということにも繋がります。いつも、この私のことを思い続け、支え続けてくださる仏さま(阿弥陀さま)が、確かにいてくださる。その事実に気づかせていただくことが、私たちの人生を支える、大きな拠り所となるのです。

-法話