たけのこも蚊も私も

たけのこの勢い

今年は春先からとても暖かく、雨も多かったせいか、たけのこの成長も例年になく早いように感じます。庭の隅や竹藪に顔を出したかと思うと、あれよあれよという間にぐんぐん伸びて、数メートルにもなり、もう竹にならんとしています。その生命力の強さには、目を見張るものがあります。

笋(たけのこ)も名乗るか(一茶の句 その1)

江戸時代の俳人、小林一茶に、このたけのこ(筍)を詠んだこんな句があります。

「笋(たけのこ)も 名乗(なの)るか 唯我独尊(ゆいがどくそん)と」

地面から力強く顔を出したばかりの、みずみずしいたけのこの姿には、何とも言えない風格さえ感じられます。一茶は、その天に向かって真っすぐに伸びようとする、たけのこの雄々しい姿に、お生まれになってすぐに七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と宣言されたという、お釈迦さまご誕生の時の伝説的なお姿を重ね合わせたのでしょう。

一茶は、たけのこを、単に「食用になる一本○○円の筍」として見るのではなく、私たちと同じように、懸命にいのちを生きている存在としての共感の中に見ていきます。そして、その力強い生命の輝きの中に、お釈迦さまとも重なるような尊い「はたらき」や「願い」のようなものを感じ取ったのではないでしょうか。

耳元で鳴く蚊(一茶の句 その2)

目を転じれば、その竹藪には、もう羽音を立てて蚊が飛んでいます。いよいよ、かゆい夏がやってきます。特に耳元で「ぶーん」と飛ばれると、うっとうしくてたまりませんね。

そんな、私たちにとっては厄介者でしかないような蚊についても、一茶はこんな句を残しています。

「なむあみだ 仏(ほとけ)の方より 鳴蚊(なきか)哉(かな)」

「仏の方より」という言葉は、浄土真宗で大切にされる蓮如上人の『御文章(ごぶんしょう)』、その中にある「聖人一流章(しょうにんいちりゅうしょう)」という一節に出てくる言葉です。「仏さまの方からのはたらきかけとして」「仏さまのお導きとして」という意味合いで使われます。

一茶は、あの耳元でうるさく鳴く蚊の羽音さえも、「仏さまの方からのはたらきかけ」として受け取ったのです。まるで蚊が、「一茶よ、自分の力ばかりを頼りにするのではなく、阿弥陀さまのお念仏を申せよ、申せよ」と、お念仏を伝えるため、お念仏を勧めんがために鳴いているのだ、と。そのように、蚊のはたらきを通して、仏さまの願いを聞かせていただいた、という句なのです。

もちろん、一茶自身も、刺されてなるものかと、思わず「ぱちん」と手を出して蚊を叩いたかもしれません。けれども、たとえそのような行動をとってしまう自分であっても、そんな小さな、取るに足らないような「いのち」からも、私たちを案じ、私たちを導こうとしてくださる、仏さまにつながる大きな願いを受け取ることができる。一茶の句は、その世界を私たちに示してくれます。

すべてが光の中に

私たちは、蚊を殺し、たけのこを美味しく食べる、そういう存在です。蚊やたけのこから見れば、自分たちの都合でいのちを奪う、身勝手な存在かもしれません。

けれども、その蚊も、たけのこも、そしてこの私も、阿弥陀さまという仏さまからご覧になれば、どれも等しく、かけがえのない「いのち」です。阿弥陀さまの「必ず救う」という大きな願い、その温かい救いの光の中に、すべてのいのちが、今、ここに、共に生かされているのです。

-法話