意訳「仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって」
書き下し「諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して」
阿弥陀仏が法蔵菩薩であった頃の話になります。
法蔵菩薩が世自在王仏の元で、たくさんの浄土の成り立ちや、
その国土に住む方々の善し悪しをご覧になります。
仏教では、一神教ではありません。計り知れないほどの仏様がいて、
その数だけ仏の浄土も計り知れないほどあると考えます。その中で、
法蔵菩薩はこの上ないさとりをひらくために、すべての諸仏の浄土をご覧になります。
「覩」とは、よく見る。目をとどめてはっきり見ることを表し、細かに観察することを
意味します。「覩見」と「よく見る」と「みる」という言葉を重ねて使われることによって、
全ての諸仏の国土・人間のあらゆる苦悩や悩み、罪業をもすべて見とおすことを表しています。
私がこの世の中を見る視点は、ただ一つであります。どれだけ客観的に物事を見つめよう
とも、私の価値感の中でしか物事を見ることは出来ません。
自分の価値判断、知識の上で物事を判断することが、絶対的に正しいと思い込んでしまい、
自分以上の視野が見られなければ、それは暗闇の世界に独り留まってしまうことと同じ
ことでしょう。私一人の「見る」世界で、得た(知識・善悪・価値基準・役に立つ役に立たない)
ものは、所詮そのようなものなのです。
自分が暗闇の中にいることも気づかなかった私が、阿弥陀様の御光に出会えて、
初めて自分の価値感の真価をとわれるのであります。
絶対的に正しいと思っていた自分の視点が、大きな存在からの視点に触れること
によって、改めて自分を省みることができるのではないでしょうか。
(難しくなります)
法蔵菩薩は、いくつ浄土をご覧になられたのでしょうか?
正依(しょえ)の経典である『大経』には、諸仏浄土の数は210億あるとあり、
法蔵菩薩は、その全ての浄土の成り立ちや、そこに住む人天の善悪をご覧に
なられたと説かれています。
210億という数字は、人間の思議を超えた計り知れないことを表しています。
それだけ多くの世界をみなければ、救われがたい人間であり、すべての人を
救うには、210億の浄土をご覧になっても、阿弥陀様にとって、十方衆生が
救われる教えがなかったことをあらわしています。
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪