何を求めるのか

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私たちは幸せを求めて生きている。それは当然のことであり、皆が望むことである。
その望み方が人それぞれで、神社に行ってお守りを買う人(家内安全・無病息災・安産祈願など)、
1日の始まりを無事に過ごせるようにと祈り、そして1日の終わりに無事を感謝するひと、
これらの望みは人として当たりまえで、非難されるものではありません。
私にとって、大切な人の苦しむ姿は見たくないですし、自分を含め周りの幸せを思いながら生活しています。
日本のようにこれだけ平和に安全に暮らしていながら、さらにより豊かに生きたいというのは
時代を超えた願いであります。
しかし、私の幸せが必ずしも人類全体の幸せに通じるとは限りません。
例えばスポーツ観戦であれば、「勝ってほしい」と願うということは、逆の立場から見る
「相手には負けて欲しい」と願うことであります。
病気の場合、治療をすることによって治るならば、治らない患者さんやその家族からすると
その姿を心から喜べることはないでしょう。むしろその姿が羨ましがらせ、嫉妬の心となり、
煩悩の炎をメラメラと燃やしかねません。
これらの事象から気づくことは、自らの幸せには限界があるということです。
阿弥陀如来さまの願いは、もう一つ広く大きな世界、おさとりの世界から
幸せであろうと、そうでなかろうと、呼び続け、支えていてくださいます。
お念仏申しつつ、限りある私であるという自覚のうえに、共に歩ませていただきましょう。

-法話

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