信心の味

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「信心をいつ頂いたか」なんて聞いてくる人は疑ったほうがいい。
自分がいつ頂いたかなんて知らなくとも、今現に南無阿弥陀仏のお念仏に出遇っているのである。
今、念仏称え、仏法を聞かせて頂いている事に間違いはない。聞くに間違いない救いだからそこ、
お浄土参りが定まっているのです。
【浄土和讃】
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
【現代語訳】
この世界での苦しみを越えて、浄土に往き生まれ、仏となることができるのは
他力信心を得て念仏を称えるならば満善満徳の込められた御名の宝を頂き
命終えた時に仏となることが出来るのである。
この信心=念仏を得ることを、自らの力で得たという解釈では、意味が大きく異なります。
それは、まさにビールの味に喩えられるようなものであります。
子供の頃に、父が飲んでいるビールが気になり、横から手を伸ばし味見をしたことがあります。
大人はなんて苦い飲み物を飲んでいるんだと驚いたことであります。ビールなんかより、
ジュースの方が美味しいし、これからもビールよりジュースを飲んでいくだろうと思っていました。
しかし、気づけば私も父のようにビールを飲んでいます。お酒は嫌いじゃないので、友達との食事や
仕事の付き合いでもビールを飲んでいます。子どもの頃には分からなかったけれど、いつの頃からか
ビールを飲むようになったのです。
私が自ら思って「この麦がいい」とか、「飲みごたえがある」や「舌に乗った感覚が云々かんぬん・・・」
そんなことなど思ったことがありません。ただビールを飲んだ、その時に旨いと思うだけであります。
製造方法も保管方法、ましてやビールの入れ方へのこだわりも分からずに、飲むが飲むままに旨いと
思っていたのです。それも、気づかぬうちに飲んでいたのです。
ビールの話が長くなりましたが、信心を頂くということも同じです。
信心を理解したからじゃない。信心を有り難いと思ったからじゃない。
信心を得たという確証でもない。四六時中忘れない、なんてことはありません。
いつのまにか信心を頂いていた。それを念仏称える身となっていたのです。
いつか分かろうが分からまいが、今往生浄土が定まっている身へとなったのです。
信心の姿・弥陀の御慈悲・念仏の由来、すべてのこと理解せずとも、
その存在すら忘れようとも、私を忘れん親様が「南無阿弥陀仏」の仏さまです。
この頭から昔の記憶や家族の顔さえ忘れようとも、この身を離さず仏とならしめる、
それが阿弥陀如来さまなのです。

-法話

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