真っ赤に染まった紅葉の葉や、銀杏や、欅の黄色い葉っぱも風に散らされています。自然界の木々は初夏になると若葉が緑したたる濃さを示し、そして冬を迎える前の秋には独特の色で自らを染め上げ、落葉して行きます。
この四季の木の葉の移り変わりの姿は、まさしく人の命の移ろう姿に似ているようです。植物がその生長の過程で自らの色素を自分の中に合成するのと同じように、私たちも熟成する過程の中での、人との出会いや本や体験・学習などから、それぞれの人生を染め出して行きます。
法(のり)の色に染められて
親鸞聖人は29歳の時、法然上人と出会われ、それまで20年間頂いてこられた自力難行の道と決別し、他力易行のお念仏の救いに帰依されました。この慶びを、聖人は次のように歌いあげておられます。
この慶びを曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし (意訳:遥かに長い間、迷いの世界から抜け出す確かな縁を知らなかった。師である法然上人がいらっしゃらなければ、この人生も空しく過ぎてしまったことだろう)
そしてただ師であるだけではなく、法然上人を阿弥陀如来の化身として、このように仰がれています。
そしてただ師であるだけではなく、「源空勢至と示現し あるいは弥陀と顕現す」と阿弥陀如来の化身と仰がれているのです。
法然上人との出会いを通し、「まかせよ必ずすくふ」とはたらき続けてくださる南無阿弥陀仏(阿弥陀さまの救い)をわが身に受け止められ、次のように述懐しつつ90年のご生涯を歩み抜かれたのでした。
「生けらば念仏称えなん、死なば浄土に還りなん、とにもかくにも己身は思いわずらふことなし」 (意訳:生きていればお念仏を称えよう、死ねば浄土に還らせていただくのだから、どちらにしてもこの身について思い悩むことは何もない)
それはまさに、南無阿弥陀仏に人生が染め上げられ、如来のかぐわしい智慧の光で飾られたご生涯だったのです。
「おかげさま」という心
人はそれぞれ与えられた環境の中で、またはそれぞれが築き上げた環境の中で、いのちを終えて行きます。しかし、お念仏申す者の身の上は、人生が南無阿弥陀仏に染め上げられていく中で、私が私のまんまに光り輝かしめられ、あなたはあなたのまんまに光り輝いていく世界が開かれてくるのです。
少し前のことになりますが、『一筆啓上・日本一短い母への手紙』という本が広く読まれました。その中に、心に残る一通がありました。
その中に「お母さん、あなたからもらった物は数多く 返せる物はとてもすくない おかげさま、おかげさま」という手紙にであいました。
「おかげさま」という言葉があります。真ん中に「かげ(影)」という文字がありますが、これは日向(ひなた)に対する「かげ」、つまり、私の見えないところ、気づかないところを意味します。それに丁寧語の「お」と「さま」を付けて「おかげさま」と言います。つまり、目に見えるもの、見えないもの全てを含めて、あらゆるものによって生かされている私であったと気づかされ、うなずいていく心。それが「おかげさま」という心なのです。
親のごとく念(おも)うまなざし
親鸞聖人は、阿弥陀さまと私たちの関係について、このように示されました。
「子の母をおもうがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前到来とほからず 如来の拝見うたがわず」 (意訳:子供が母を思うように、私たち衆生が阿弥陀さまの願いを聞き、お念仏申せば、阿弥陀さまは必ず現れ、そのお姿を疑いなく拝むことができる)
子供が母を思うように、私たち衆生が阿弥陀さまの思い、願いを聞かせていただく中に、間違いない親(阿弥陀さま)に出遇える世界があるのだと、親鸞聖人はお慶びになられました。
親は、子供が笑えば共に喜び、子供が泣けば自分のことのように心配します。そして、頼みもしないのにご飯を食べさせてくれ、お風呂にいれてくれ、服を着せてくれる。それも物心ついてからだけではありません。「おぎゃー」と生まれてからこの方、一時も休むことなく、私たちを育て続けてくれているのです。
今、子供が母を思うように、私たちが阿弥陀さまの願いを聞かせていただくと、阿弥陀さまは私たちのいのちを、一人ひとりかけがえのない、しかし迷えるいのちとご覧になっておられることが知らされます。私たちを「欲も多く、怒り、腹立ち、妬み、嫉む心多くして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えず、絶えない、この煩悩具足のこの身」であると見抜いておられます。
そんな私たちのいのちを「必ず救おう」と願いをたてられ、その願いは私たちを救う力となり、南無阿弥陀仏という親の名乗りとなって、今、私たちに届いてくださっています。
「慈眼をもって衆生を視そなはすこと平等にして一子のごとし」 (意訳:慈しみの眼をもって衆生をご覧になることは平等で、まるで一人っ子に対するようだ)
阿弥陀さまの方から、平等に、慈しみ、悲しみの眼をもって、私たち一人ひとりを、ただ一人の大切な子どものように、すでに抱きしめてくださっておられるのです。
阿弥陀さまのこの広大なお心、お育てを知らされてみれば、私たちの毎日は、まさに「おかげさま、おかげさま」であったと、うなずかせていただくばかりです。